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特集/結婚と生活~さまざまな状況~

障害をもつ人たちの現代結婚事情

谷口明広

はじめに

 歴史的に見ても、障害をもつ人たちの〝性や結婚〟は、日の当たる場所に登場することはほとんどなく、闇に包まれた暗い部分の話として扱われてきたと言っても過言ではないのです。1例として、われわれがお祭りの夜によく見かけるお面に「ひょっとこ」があります。この「ひょっとこ」ですが、漢字で書くと『火男』と表します。〝ひおとこ〟が変化して〝ひょっとこ〟となったのですが、この『火男』という言葉は火を守る男という意味合いであり、江戸時代の食べ物商売のお店などにおいて夜間に火を消してしまわないようにしておく仕事をする者のことをいったものです。現在のようにマッチやライターが存在しない時代においては、火打ち石などでつけた火を消さないように守る仕事が重要であり、欠かすことのできない職種だったのです。

 しかしながら、夜間に火を守り続けるという仕事は過酷であり、ほとんど休暇も与えられないほどで避けられる仕事の1つであったと言われています。このような過酷で嫌がられている仕事に就くのは、他に仕事を見つけることのできない障害をもつ人たちが多かったのです。この状況も現代社会において見られるものですが、人権という考え方が存在しなかった時代では現在とは、比べることもできないほどの差別行為がなされていたと考えられます。

 ここに出した「ひょっとこ」を思い出していただくと、口が尖っていて曲がっており、普通の風貌でないことが理解できます。そのような風貌になった理由は、火を守るために竹筒をくわえて息を吹き込んでいたのでという説明と、言語障害で口を歪めて話す姿であるという説明がなされています。

 どちらにしても「ひょっとこ」は障害をもつ人たちであると言われており、過酷な労働条件の中でお祭りの夜だけが唯一の休暇であったとされています。日ごろは女性と交わることが許されていなかった彼らには、この祭りの夜だけが1年に1度の機会だったのです。

 この機会に相手をしてくれるのは、その村に住む美しくはないけれども気持ちのやさしい「おかめ」だったのです。現在でも「ひょっとこ」や「おかめ」は、お祭りの夜になると、どこからともなく現れて踊り消えていくのです。笑いの対象として見ていた「ひょっとこ」の話は、障害をもつ人たちのいたたまれない性への執着心が含まれているのです。

 これらの他にも全国各地の民話には「異類婚」が描かれているものがあります。人間の女性や男性がサルと結婚したり、キツネと結婚したりするという物語は、障害をもつ人たちを動物に見立てて書かれたものが多いと言われています。障害をもつ人たちが結婚するということは、物語にしなければならないほど珍しく貴重な事柄であったのが想像できます。動物にたとえたという内容は、障害をもつ人たちの存在価値が低く見られていたとも言えないこともありませんが、良心的に捉えると作者なりの気遣いとも取れるのです。

 このような歴史的な事柄から見た障害をもつ人たちの結婚は、表面に出てこない「隠された結婚」と言えますし、珍しい出来事だったと考えられます。『天気雨』を〝キツネの嫁入り〟と呼びますが、この内容も「結婚式という晴れの日なのに、障害をもつ女性と結婚するとは涙(雨)ものである」というように解釈すれば、この言葉も納得できるのではないでしょうか。障害をもつ人たちの結婚に関するこのような認識は、現代社会においても、少しの変化があったと言えないこともないですが、おおむね変化していないと答えたほうがよいでしょう。

 現在の結婚年齢は年を追うごとに高齢化し、結婚しない人の数も増加してきています。これらの社会的風潮に関係していないような所で存在していると思われがちな障害をもつ人たちの結婚にも、何らかの変化が見られていると感じています。ここでは、海外の話題も取り混ぜながら、障害をもつ人たちの結婚事情について、解説を加えていきたいと考えています。

変化してきている結婚の意味

 日本における結婚の考え方は、長年にわたり〝家〟と〝家〟とを結び付けるものとして捉えられていたという経過があり、その意味合いが現在において全くなくなったとは言い切れません。近年になり、家同士の結婚という認識は急激になくなりつつあり、〝個〟という概念が浸透しつつあります。しかしながら、障害をもつ人たちの結婚という観点で捉えてみると、「親の反対」という〝家〟の概念が表面化してくるのです。西洋文化の中で成長してきた若者世代であっても、結婚という場面においては、「親の許し」という考え方が重要な要素になっているのではないでしょうか。将来的に「親の面倒をみることができない」と考えられる重度障害をもつ人たちの結婚に対して、相手の両親が感情レベルで拒否反応を示すことは理解できないことではありません。

 障害をもつ人たちの親(特に母親)は、子どもの結婚に「(介護者として)私に代わるような人」という願いを込めている場合が多く見られます。障害をもつ人たちは、青年期に入ると〝結婚=介護者獲得〟という考え方を親をはじめとする周囲の者たちから強要され、健常者との結婚こそが最善であるかのような認識をもってしまうことが多いようです。

 現状を見ても、障害をもつ人たちが健常者と結婚しただけで、何らかのステータスを得たような風潮が存在しています。よって、特に障害をもつ男性は、介護を中心とする身の周りの世話という要素で障害をもたない女性を求めるという図式が成り立つのです。〝結婚=介護者獲得〟という考え方が正当であればこのようなステータス認識も正しいといえますが、意識下あるいは無意識下に関係なく、結婚を介護者獲得の手段とした場合の婚姻崩壊率が高いのではないかと認識しています。

 『結婚』を生殖の場として捉える考え方も存在しています。現代の若者でも恋愛中に妊娠が発覚すると、急いで結婚という形態に結び付けようとします。すなわち、結婚とは「子孫を増やしていく場所の形成」という考え方が根強く残っているという意味ではないでしょうか。「障害をもつ人たちは子どもを産めないし、育てられないから、結婚もしなくていい」という考え方が、障害をもつ人たちを囲む人々を含めた一般が長年抱いてきた解釈と思われます。しかしながら、結婚というものを「生殖」や「子づくり」という物理的な現象のみで捉えるのではなく、精神的安定を得る場面を獲得する手段として考えるならば、障害をもつ人たちにも保障されて当たり前の権利であるということができます。

 このような考え方に立つならば、結婚という形態にこだわることなく「内縁関係」でも良いのではないかという意見も出てきています。難しい問題ですが、内縁関係すなわち同棲という形態が未だバッドイメージとして捉えられている現在において、多少なりとも差別的な目で見られがちな障害をもつ人たちが同棲という形態の中に身を置くことは偏見の助長につながるのではないかと思われます。そのような差別的錯覚を軽減していくことに力を傾けていくことも重要な事柄ですが、〝結婚=自立〟という一般的な認識が障害をもつ人たちの周りにも染み付いていると捉えることが妥当ではないでしょうか。障害をもつ人たち同士であっても、精神的安定が得られる結婚を可能なものとして、結婚生活が安定して継続できるような生活保障制度が必要となってくるのです。

結婚と生活保障問題の狭間で

 不思議な話なのですが、地域社会での生活という場面で考えてみると、障害をもつ人たちが「結婚」という形態を確立してしまったが故に、生活レベルが悪化するという現象が起きているのです。例えば、生活保護費を受けて1人暮らしをしていた障害をもつ男性が、収入のある障害をもたない女性と結婚したことで、保護費が支給停止となり、同棲時に比べて世帯収入が激減することがあるのです。さらに、生活保護費に包含される介護加算においても、他人介護加算と家族介護加算との間には雲泥の差が見られ、経済的な側面から捉えると、結婚という形態をとるよりも同棲という状態のほうが高いレベルの生活が保障されるという奇妙な状況が存在しています。

 1995年10月から京都市で施行された『全身性障害者介護人派遣制度』においても、65歳未満の同居者があると介護費が原則的に支給できないことになっています。要するに、結婚していない自立生活者には介護費を支給するけれども、結婚した障害をもつ人たちは配偶者からの介護を受けなさいという意味で捉えることができます。家族介護というものを『介護』の基本としているわが国の考え方からすれば当然の行為かも知れませんが、障害をもつ人たちの結婚観を揺り動かすには余りある事実であると認識しています。

 現実問題として、障害をもつ人たちが結婚という形態をとらないで、内縁関係という状態を継続している例は少なくありません。結婚しないほうが幸福になれるという現状に疑問を感じているのは私だけでしょうか。重度な障害をもつ人たち同士であっても結婚が可能になるような介護制度の確立と、結婚することにより生活レベルが悪くならないような制度の整備が必要なのです。このような問題が解決されない限り、障害をもつ人たちの結婚を健常者の結婚と同等に捉えることができないのです。

おわりに

 米国には個人を対象としたアテンダント(有料介護人制度)が確立されており、結婚した後でも障害をもつ個人を介護するという考え方を貫いています。この制度下においては、夫も妻も自分の介護人を雇用することが可能ですので、どちらかが身辺介護の負担を負わなければならないという現象が見られないのです。もし夫が障害をもっている場合は、大工仕事が得意な介護者を雇ってきて素晴らしい犬小屋を作ることは可能ですし、妻のために美味しいフランス料理を作りたいと思えば、料理が得意なアテンダントを雇ってくればいいのです。当然のことながら、妻が障害をもっている場合でも同様ですし、夫婦がともに障害をもっていても同じことなのです。

 重度な障害をもつ人たち同士が愛し合っても結婚できないというわが国の現状は、障害をもつ人たちに対する福祉制度の縮図を見ているような気がしてなりません。結婚生活を安定し継続させていくには、各場面におけるさまざまな方法論が存在します。障害をもつ人たちならではの方法論ももち合わせている人が多いと思いますが、紙面の関係もあり次回のチャンスを待つことにします。

(たにぐちあきひろ 自立生活問題研究所)


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「ノーマライゼーション 障害者の福祉」
1996年10月号(第16巻 通巻183号)8頁~11頁