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特集/結婚と生活~さまざまな状況~

共に生きる喜び

芹沢茂夫

 私たち夫婦は昨年12月6日、20回目の結婚記念日を迎えた。この日は私たちの主催で、3人の子どもたちと妻の母親や双方の兄弟夫婦、従兄弟夫婦たちを招待して、ささやかなパーティーを開いた。

 招待した人たちは、この20年間、物心両面で応援してくれた人たちで、私たちの生活状況を誰よりも知っている。本当は家族だけの祝杯でよかったのだが、20年の節目に当たり、この人たちに何らかの感謝の気持ちを伝えておきたいと思ったのだ。

出会いから結婚へ

 私たちは2人とも幼少のころ小児マヒとなり、共に障害等級1級のハンディを生涯背負うことになった。私たちは療育施設、職業訓練所を一緒に過ごし、その後サークル活動を通じて交際するようになった。

 交際を始めたころ、私は両足の大腿部から補装具をつけ松葉杖で歩いていた。両手指は筋力、握力が全くなかった。しかし、私はハンドルの回転装置やアクセル、ブレーキ装置を自ら考案し、幸いにも車の免許を取得し運転することができた。彼女は20歳過ぎたころ、右足の膝関節の固定手術を受け、家の中は自力で歩くことができたが、外出時は松葉杖や車いすを使用していた。

 そんなハンディを背負っていた私たちであったが、互いのハンディを理解し、親元から離れ〝自立〟したい気持ちが強く「一緒になろう」と決心した。

 だが、重度の障害者同士(彼女より私のほうが重度だった)が結婚するとなると、親族や周囲の人たちは、冷静な判断として反対する人が多かった。特に、娘の将来を誰よりも案じていた彼女の父親からは「おまえたちの身体で一緒になって何ができるか」と強烈な罵声が浴びせられ、先輩たちが説得に訪れてくれたが受け入れてもらえなかった。

 これ以上何をしても賛成を得られないことを悟った私たちは、親に怒られるのを覚悟のうえで、一緒に生活することを決めた。折しも同じサークル仲間に数組のカップルがいたので、その人たちと一緒に車いすで生活できる「障害者専用住宅」の建設を行政に陳情、それによって建てられた住宅に入居し、生活を始めた。

長男の誕生

 彼女の親が、私たちの住まいに訪れることもなく日々が過ぎた一年半後、彼女の妊娠がわかり、それが両親にも伝わった。それまで電話をかけることも、住まいに来ることも拒否していた父親が結婚を許してくれ、結婚式を挙げることができた。

 妊娠した妻は、身重になってから何度となく転倒し、子どもが生まれるまで心配したが、帝王切開で元気な男児を出産した。

 私たちは〝子育て〟という全く未知の生活に入った。子育ては不安や心配があり自信はなかったが、親や回りの人たちの手助けを受けながら必死に育てた。私たちは子どもを背負ったり抱いて歩くことができないため、食事を運ぶワゴンに寝かせて風呂場に連れて行ったり、車いすに乗ってリレー式に運んだり、そのつど二人で知恵を出しあった。

双子の誕生

 長男が誕生して3年半、わが家に重大事が発生した。妻は妊娠3か月であり、双子であることがわかった。思いもよらない出来事に私たちはもちろん、親たちも困惑した。妻の身体、子育て、収入面のことが心配や不安材料となり、一時期は神様も恨んだ。しかし、妻は医者と相談し出産を決心した。妊娠八か月頃、歩行ができなくなり入院をするなど困難はあったが、帝王切開で無事双子の女児を出産した。

 家族に双子が加わり、一挙に5人家族となり、3人の子育てをすることになった。双子の育児は健常者でも大変である。私たち自身も心配と不安でいっぱいだった。周囲の人たちも「あの身体で、3人どうして育てるずら?」と、心配していたという。双子が誕生してから20日間は母親が同居して面倒を見てくれたが、事情があって帰ってしまった。

 妻は双子の育児を四歳の長男に手伝ってもらうことにした。風呂に入れる時、車に乗せる時、服の着替えの時、また双子が歩くようになった時は、危険な目に遭わないよう2人の手をしっかりつかんで歩いてくれたり、親の手足となって一生懸命手伝ってくれた。双子の子育てには長男が欠かせない大きな存在だった。

家族で助け合って

 一方収入面では、日曜や夜の外出を控え、内職の時間に充てた。私は勤めながら、妻も家事と育児をしながら昼間タイプを打ち、夜や日曜日も印刷の副業に休む暇もなく働いた。子どもたちも成長とともに紙や印刷物を運んだり、タイプの活字を入れ替えてくれたり、年相応の手伝いをしてくれ、家計を助けてくれた。また、小中学生になった3人の子どもたちは、地域の行事や清掃作業に親に代わって参加してくれた。家族みんなで頑張ってきたお陰で、15年前、小さいながらも現在地に自分たちの力で家を建てることもできた。

 子どもたちは、学校生活では作文や絵などでさまざまな賞を受賞したり、学校の陸上競技や村の体育祭のリレーでは選手に選ばれた。3人とも俊足で、私たちが跳んだり走ったりできなかった分まで走ってくれているようであった。

 20年前は、私たち重度障害者同士が結婚することも、3人の親となったことも、周囲の批判や反対などがあったが、20年たった今、その生活を振り返ると、それらのことに屈せずやり抜いてきたことに、私たちは自負し、満足している。確かに苦しく辛かったこともいくつか思い出すが、そのことよりも家族5人が力を合わせ助け合い、支え合い、一生懸命頑張ったことで、喜びの場面をたくさん与えられたことのほうが心に残っている。1人の人間、社会の一員として責任ある生活を営み、人や社会に認められる人生を送れたことは、最大の喜びである。3人の子どもたちからもらったたくさんの歓喜は、苦労の積み重ねに対しての代償である。

 長男は現在大学2年、娘たちは今年高校に入学した。『二十歳までは親の責任』の言葉もあとわずかとなった。これからも親子の絆を強くし、もっともっとたくさんの『しあわせ』を感じたいと思っている。

(あしざわしげお 山梨県八田村身体障害者福祉会会長)


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「ノーマライゼーション 障害者の福祉」
1996年10月号(第16巻 通巻183号)18頁~20頁