音声ブラウザご使用の方向け: ナビメニューを飛ばして本文へ ナビメニューへ

1000字提言

コミュニケーション過多の勧め

山口エリ

 誘拐、いじめ、非行……。日々のニュースはこんな非日常的なことまで普通のことのように報じている。すこしも普通のことではない。それだけ社会全体が病んでいるということだろうか。「社会」などといってひとごとにするわけにはいかない。私には、8歳になる娘がいるからだ。

 現在は、幼稚園への送り迎えがなくなり、物理的にほとんど手がかからなくなった。ところが心のケアはもっとずうっと大変なのである。仲間外れにされたり、傘を壊されたり、文房具を取られたり……。彼女にとっては重大な問題が次々に持ち上がっているようだ。

 いやなことだけを話しなさい、というのも偏っている。「うれしいこともいやなことも、その日のうちにパパかママに話してね」、いつもそう言っている。母親にしか話せない、父親にしか話せないではなくてそのとき話したいほうに話せばよい。聞き手は2人いれば少なくとも2つのアドバイスが得られるのだから。

 私は視覚障害者、夫は健常者である。小さい頃から、私の障害ゆえに他の子にできることができなかったらかわいそうだと、折りにふれ心にかかった。ところが最近、娘は他の子はあまりしないことをしていることに気づいた。

 それは、彼女はほとんど指示代名詞を使わないということである。最初は「ママ」への気遣いかなと思ったが、注意して聞いているとパパにもその他の人にも「ノート、コーヒーメーカーの右に置くね」とか「自転車の鍵、白粉花の前に落ちてた」と言っているのである。

 身近にほとんど見えない人間がいたことが、ある意味では彼女の表現方法にはプラスになったのかなと思った。赤ちゃんのときから、おせっかいかなと思えるくらいコミュニケーションをとってきたことが、今までもこれからも功を奏するといいなあ、と楽天的に思うのである。

 なにかにつけ「個人主義」という言葉を耳にする。子どもの頃から自分一人の部屋があって、テレビ、電話、コンピューターが自分専用というのもよくあるケースだ。果たしてそれでいいのかしら?誰かとチャンネルを争ったり、電話を譲ることを覚えながら育った者としては、「我慢すること」「禁止されること」「やがてその果てに獲得すること」が極上のスパイスだと思えるのである。だからこそ私は家族と働きかけ合い続けたい。

(やまぐちえり 詩人)


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「ノーマライゼーション 障害者の福祉」
1996年10月号(第16巻 通巻183号) 38頁