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1000字提言

子供と言葉

山口エリ

 犯罪が低年齢化、凶悪化しているニュースを再三耳にする。幼い子供たちの多くが、じきにそうならないとも限らないと思うと、やりきれなくなる。それはなぜかと思うとき、私の思いはどうしても「言葉」というところにいってしまう。言葉を大切にし、言葉で心を大切にすることができたら、今のような現象は少しでも和らぐのではないかと。
 流行言葉というのは、いつの時代にもあってその時代を映し、強烈な印象を残すものも少なくないが、今の流行言葉は「日本語らしからぬものの大集合」としか思えないのである。本来、有るべき形とは全く逆のアクセント、丁寧語と謙譲語が入り交じった敬語(お書きしてください、お待ちしてくださいなど)、男言葉と女言葉の境界があってないような状態など、それらを耳にするのがいやなばかりにテレビやラジオをつけたくないと思う日も少なくない。
 一人の人間が生きている間ずっと付きまとうのは言葉である。それでしか外界とつながることはできない。だとしたら、なぜもっとだれもが言葉に関心をもたないのか。
 8歳の娘を通して、子供たちの言葉の世界をかいまみるとき、なんともいえない気持ちになる。まず、人の付き合いの基本であると思える名前の呼び方に違和感がある。私自身が呼び捨てにする感覚を子供の頃からもっていなかったこともあるが、まあこれは親しさの証拠と譲るにしても、友達を名字の呼び捨てで呼ぶなんて、私にはとうてい考えられない。「○○ちゃん、××君」と呼びかけることが、相手を理解し大切にしあえる始まりなのではないか。
 私は彼女によく「あなただけはお友達をお名前で呼んでね」という。親が率先してか、それとも影響を受けてか、子供の友達を名字の呼び捨てで呼んでいるのを聞くと不快になる。このころの子供は親や先生の言葉遣いを通して、心の有りようもいつしか受け止めていくのだと思う。歴史が育み成熟してきた美しい日本語を話せない子供たちは、やがて心も殺伐としてくるかと思うと、多少子供たちの中で奇異に映っても、これはと思う言葉を、勇気をもって教えたいものである。

(やまぐちえり 詩人)


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「ノーマライゼーション 障害者の福祉」
1997年6月号(第17巻 通巻191号)30頁