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高度情報化社会にむけて

アルバイトから会社勤めへ

宮崎豊和

大学入学

 私は、受験浪人を2年した後、1982年東京理科大学2部数学科に入学しました。脳性マヒのアテトーゼ型による筆記の障害があり、試験ベタと相まって思い通りの受験成果を上げられなかったことが当時の悔いの1つでしたが、そのお陰で現在の私があります。
 2部とは、いわゆる夜学です。大部分の学生は、昼間働き、夜大学に来ている人でした。おかしなもので、その中にいて自然と私も働きたい気持ちに駆られていました。まず始めに、正当な手段として大学の学生課と電算の先生にアルバイト先の紹介を求めに行ったのですが、もちろん、私のような者が働けるところはありませんでした。しかし、運というものは分かりません。学生自治会で、友人と話をしていたある時、たまたま居合わせた学生からの誘いで、彼の元勤め先B社にアルバイトとして昼間は神谷町まで行くことになりました。両親はそこまでしなくても良いのではないかと心配をしましたが、何とかやってみようということで、大学3年から2年間、B社でアルバイトをやらせてもらいました。
 今、思い返してみると、2部に入っていたから仕事を得ることができたのだと思います。昼間の大学に入っていたら、そんな簡単に職に就くということはできなかったと思います。「就職」という「契約」にとらわれない「アルバイト」という「冒険」ができたことは、貴重な体験でした。そこで、実践的なプログラミングを見よう見まねで会得できました。私の学生時代のパソコンの知識の大部分は、独学とアルバイトで得たものです。大学受験の失敗がかえって、今の仕事の出発点につながっているといえます。

就職活動

 4年生になって大学の就職課の勧めもあり、就職活動を始めました。当時はバブルの全盛期で、理科系の学生であれば、引く手数多の時代でしたが、障害者にはやはり正式な就職の壁は厚いものでした。パソコンはそこそこできるのですが、筆記ができないということが一番のネックになりました。それは、一般社会の中で基本的なコミュニケーション手段の1つを欠いているということです。企業側が断るのも無理はありません。しかも、日本では、「就職」とは、終身雇用を前提にしてその人間を採用するのですから、企業側も真剣に考慮せざるを得ないのです。
 30社ぐらい企業を廻って、もう諦めかけていた86年1月に、某大手ソフト会社から声がかかりました。既に、同じゼミの2人にも夏前に内定を出していたC社でした。学内全体で数十人は内定をもらっていたのではないでしょうか。早速、その会社に行き、採用部の人と面接、ふたつ返事で採用が決まりました。今までの苦労は、何だったのだろうかと思うほどすんなりと決まったのです。しかし、4月を過ぎても配属先が決まらず、暫定的に採用部にいてくれという状況が続いたので、4か月で自ら見切りをつけ、退社しました。このことで、当時のC社の採用事情を伺うことができますが、詳細については紙面の都合上省略します。

会社勤め

 その後、幸運にも、大学時代のアルバイト先であったB社に連絡したところ、プログラマの人手がたりないということで、また、お世話になることになりました。当時は、少数精鋭のため、社長も含め営業が3人、役員兼システム設計者(SE)が3人、プログラマは私を含め3人いましたが、そのうち2人は、別部門のシステムに就いていたので、忙しいときには、3人分のSEのプログラム仕様を、私一人でプログラム化をしなければなりませんでした。
 高度にシステム化した大企業では分かりませんが、ふつうはSEが設計した設計書を見ただけではプログラミングはできません。まず、SEの説明をよく聴くことから始めます。それから、分からないこと、あいまいなことを徹底的に聞き直し、プログラム言語上実現可能か否かを議論します。その時に自分に言語障害があるからという理由で、躊躇し、控えめになったりしてはなりません。あいまいなことを自分の判断でプログラミングをすると、大部分はSEの思惑とはかけ離れたものになります。それを避けるために、例えば、言語上分かってもらえなければ、言い方、語彙、表現を変えてみて、お互いに理解し合うまで議論します。言語障害のある者は、聞き手に理解してもらうために自分に合った創意工夫が必要です。
 また、そのおかげで、時には逆にSEの間違いや勘違いが浮き彫りになることもあり、システム開発上重要な議論になることがしばしばあります。仕事とは、教育を受けている時とは、まったく違います。与えられた仕事を単にこなすのではなく、その裏に秘められた問題点、改善点を浮き彫りにし、解決していくことが重要なことです。

M社出張時代

 愛知県小牧市の食肉卸業(M社)の販売、財務、給与管理の総合システムを一括してB社が請け負うことになりました。当時は、LAN等のネットワークが今のようには普及していないときで、6、7台のワークステーションで、3つの業務の処理をやらせたいということがM社の要望の主旨でした。B社としては、ネットワークの業務システムを開発することは、初めてであり、前例のない大きな仕事でした。
 上司は、小牧市にシステムの打ち合わせに出張し、戻ってくると、私と打ち合わせをするということが続きました。ある程度までのプログラムは、上司のおおまかな仕様書でも作れるようになっていた私でしたが、なかなかM社が要望するようなプログラムが作れませんでした。M社は伝票類をより効率的に早く入力できることを望んでいました。もちろん、上司の指示には真剣に従うのですが、思い通りにいきませんでした。
 別な要因も重なり、これでは駄目だということで、私も小牧に出張することになりました。このおかげで、いろいろなことを学ぶことができました。それは、どのような環境で、どのような人たちがコンピュータを使い、どのような仕事の効率化を望んでいるのか、上司から間接的に聞いていたときよりも、実際に出張し現場に行ってみて、初めて明確に理解できました。また、私の作成した未熟なプログラムでどれだけ業務に支障が出ているのかを目の当たりにしたことは、良い経験でした。
 昔から、三河名古屋商人は、ビジネスには厳しいと言われている中で、特に食肉のディスカウント業で急成長するM社は、それに輪をかけたように厳しい目を持っています。当然のことながら外注先にも予定通りに仕事をこなさなければ厳しく対応するのが常です。私が出張した当初は、既に契約時の予定の納期が過ぎていました。M社からシステム開発の延滞を指摘され、会社の責任問題までに発展していました。
 そんな非常事態の中で、私は夜遅くまでプログラム開発にあたることになりました。ようやく、M社から怒鳴られながらも、3か月後にはシステムが形になり、M社の役員からも認められて、それから5、6年はM社の出張は上司と私が主に担当しました。今だから言えることですが、本当に貴重な体験をしたと感謝しています。厳しいお客さんはそれゆえに、より良いシステムを望んでおり、それにこたえてこそ本物のプロのSE、プログラマになり得るのだと痛烈に実感しました。

(みやざきとよかず ㈲ミヤエンジニアリング取締役)


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「ノーマライゼーション 障害者の福祉」
1997年6月号(第17巻 通巻191号)46頁~48頁