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1000字提言

自転車の少年

永澤美智子

 今にも雨が降り出しそうだった。傘を持っていなかった私は、何とか濡れずにすませたいと家路を急いでいた。道は狭い割に車の往来が激しく、決して歩きやすいとは言えない。なるべく右側の建物沿いに白杖を滑らせるのだが、商店の店先には看板が出ていたり、車や自転車が止まっていることが多く、それらを一つひとつ避けながら歩くのは結構骨が折れる。
 こわごわ車道に回り込んで駐車中のライトバンを通り越し、「やれやれ」と安心して杖を振り出した時、ガチャガチャと言う音とともに、杖の先に衝撃を感じた。前方から来た自転車の前輪に杖が巻き込まれてしまったのだ。「すみません!」ととっさに謝ったが、内心では「また?」とうんざりする思いだった。
 ふだんから自転車にはヒヤリとすることが多い。乱雑に放置された自転車にぶつかり、倒しそうになってしまったり、人混みを強引にすり抜けようとする自転車に杖や体をかすめられたり。けがをしたことこそないが、杖が折れたり、曲がったりして困った経験は二度、三度ではない。それでも、お互いを気遣い合い、不注意を謝り合える時は気持ちもよいのだが、いかにも迷惑そうに舌打ちされたり、一方的に怒鳴られた日にはどうにもやりきれない気分になる。
 不快な予感が頭をよぎり、思わず身を堅くした私の耳に、「すいません、すいません」と何度も繰り返す声がした。小学校3、4年生くらいの男の子だろうか。自転車から飛び降り、転がった杖を拾ってくれる。ふっと緊張がほぐれ、優しい気持ちが広がってきた。「こっちもぼんやりしててごめんね」と微笑んで答え、私はその場を後にした。が、どうやら杖が壊れたらしく、うまく操ることができない。立ち止まって具合を調べていると、もうとっくに走り去ったと思っていたさっきの少年が、「あの、大丈夫ですか?」と心配そうに声をかけてきた。おそらく気になって、ずっと様子を見ていたのだろう。他人のことなどどうでもいいという態度の人が少なくない中、まだあどけない少年の優しい気遣いに、私は心が温かくなるのを感じた。
 しばらく道端で応急処置をしてみたが、ついに杖は治らず、私は降り出した雨の中、少年の自転車に誘導され、帰宅したのだった。
 今でも時々思い出す、ほんのささいな、でも心に残る、ある雨の日の出来事である。

(ながさわみちこ 東京都在住)