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文学にみる障害者像 41

吉屋信子著
『底のぬけた柄杓』―憂愁の俳人たち―より
墨堤に消ゆ(富田木歩の生涯)

篠原暁子

 作家の吉屋信子と俳人の富田木歩、世に知られた時期も異なるこの2人の名前は、私の中ではどうしてもつながらないものであった。壮健で、恵まれた仕事をしたであろう女流作家が、「憂愁の俳人たち」という副題をつけて、10人の俳人の数奇ともいえる生涯に筆を染めたのは、なぜだろう。吉屋信子は、「なんとなく俳句に心魅かれていた」と書く。まず杉田久女の俳句に興味をもったところから、彼女の才能に見合ったとはいえない半生をとらえる。「才能に見合わない逆境」というものが、吉屋信子の生いたちの中にあるキリスト教的な感性を、刺激したのであろうか。
 富田木歩もまた、悲痛な境遇にそぐわない若者として、清純な聡明さをもって登場する。
 向島小梅町といえば、隅田川の東畔に位置し、今は納涼大花火の揚がる名所だが、富田木歩、本名一(はじめ)が生まれた明治30年頃は、まだ江戸時代のおもかげの残った下町であったという。その町で、鰻かばやきの「大和田」と名のる老舗が生家である。もともとあまり繁昌しない小店であったが、明治40年の大洪水で店は軒先まで水に没した。それまでもたびたび大水の被害を受けていた川筋の町は、娘たちを花街に身売りさせなければならない、貧しい地域になっていた。木歩の姉たちも、芸妓になって家を出て行く。
 木歩は2歳の時に高熱を発したあと、両足がきかなくなっていた。家の中を「躄って」いたというが、こうした不自由を背負った弟を残して姉たちは去り、父親も不遇のうちに世を去ってしまう。
 家業は兄が継いだが、一向に暮らしは立たず、足萎えの木歩も友禅型紙彫りの奉公に出る。辛い仕事であったが、そこで年下の「兄弟子」土手米造と出会う。彼はのちに木歩の最初の句仲間となり、波王と号している。
 木歩がまだ古めかしい俳号「吟波」を名のって、棟割長屋の入口に「小梅吟社」を掲げたのは、20歳の時である。「石楠」主宰の臼田亜浪が選をする「やまと新聞」俳壇に入選をつづけ、やがて亜浪門下になる。
 吉屋信子は、木歩の若い宗匠ぶりを次のように書いている。

――その狭い長屋の6畳からはみ出るほど人が集まったとは、若くして吟波には人間の魅力があったと思える。不具にありがちな陰気な暗さやひがみはまったく彼にはなく、じつに明朗でかつもの柔らかに謙譲だった――

 木歩の置かれた苛酷な境遇と、ナイーブな才能あふるる青年像、これは生涯の友となる新井声風にも衝撃的なことであったようだ。
 声風は当時、慶應義塾の理財科の学生であり、すでに亜浪門下、かつ自身で俳誌「茜」を刊行していた。声風の父は浅草で映画常設館を営む事業家、市会議員でもあった。何不自由なく育った声風と、何もかも不自由な木歩と、この2人はしかし、尊敬し合って、俳句のよき連衆となっていく。
 身体障害と貧しさのために、木歩は小学校にも通えず、いろはがるたやめんこで文字を覚え、少年雑誌のルビ付きで漢字をも会得する。独学での俳句や俳文はみごとであったというが、ここに大学生の友人を得て、新しい芸術的センスに触れることができた。「吟波」から、自らの足に由来する「木歩」へ、俳号を変えたのも声風と知り合ってからである。

  人に秘めて木の足焚きね暮るる秋   木歩

 松葉杖を自分で作って何とか歩こうとした少年が、この木の足を燃やして、俳句とそれを支える友人を心の杖ともたのむ。この若々しい決意のすがすがしさ、そのまま、木歩の生活も明るい方向へと移り行くのではないかと、読者は希望をもつのである。
 しかし、読者の期待は裏切られる。病苦がまたも木歩の一家に襲いかかるからである。
 木歩の家には聾唖者の弟が居た。世間の人々は、殺生をして商いをする家だから、2人も「不具者」が出たのだと噂する。

  鰻ともならである身や五月雨   木歩

 「我等兄弟の不具を鰻売るたゝりと世の人云ひければ」と前書きがあって、この間の事情を垣間見ることができる。しかし木歩はことさら僻むでもなく、自分の姿を客観視した。弟のことも心から慈しんでいた。その弟が結核で逝き、つづいて半玉になった美しい妹も、同じ病に倒れる。狭い家での次々の感染は、木歩をも無事ではおかなかった。喀血した木歩のもとに、俳友の医師が来てくれる。声風も、水巴、亜浪、白水郎といった師匠格の人々の短冊を売って治療代を集めた。
 弟妹につづく母の死、自らの病苦、こういう中で俳句の友人は木歩を慰めようと、一夜の舟遊びを仕立ててくれる。小康状態の木歩にとって唯一の豪勢な経験――しかし、ついにもっとも苛酷な運命の日が、木歩と声風の上に襲いかかるのである。
 大正12年9月1日、関東地方一帯に突如として大地震が起きたのだ。声風は勤め先の下谷で、「眼もくらむ大地のゆらめき」を感じ、木歩の身の不自由を案じた。余震の残る吾妻橋を渡り、牛島神社から木歩の住居の辺りを尋ね回る。木歩は妹たちに連れられて、神社の土手の木の根元まで避難していた。
 火災が起きていた。どんなにしてもこの歩けない友人を助けようと、声風は木歩を背負った。「足の先は細り萎えても身体は14貫あった」木歩である。行く手の道いっぱいに逃げる人がひしめき、運ばれていく荷にも火焔が飛び、燃え広がった。あとは眼前の隅田川に飛び込むよりほか「万事休」した。
 現在よりはるかに川幅の広い、そして地震によって水嵩の増した隅田川である。「水に浮かぶ術もない」木歩と、どうやって水に飛び込んだらよいのか。
 吉屋信子の筆はためらうように書き継ぐ。

――どこまでも君を連れて逃げたい。逃げたい……だがもう……どうにもならない! 彼は声をふりしぼって、木歩の手を強く握り締めた。木歩は一語も発せずただ友の手を握り返した……火の渦巻が2人を包んだ瞬間1人は川の水中へ1人は墨堤の火焔のなかにと別れた。――

 奇跡的に川を泳ぎ切った声風は、そののち木歩の俳句を生かすために、自分の句作をやめた。木歩をあの地獄の墨堤に残さなければならなかった瞬間から、声風は木歩を自分の身体の中に取り込もうとしたのである。自分の詩魂は衰えたと言い、木歩の詩魂を生かし世に伝えるために、後半生を費したのである。
 吉屋信子は、この新井声風に自分を重ねているように思われる。木歩の数奇な運命を識ったがうえの、これまた「数奇な運命」と書いている。「墨堤に消ゆ」の切々たる結末は多くの読者に、それぞれの「生」(注)の難きことを、あらためて問いかけているのであろう。

(しのはらあきこ 俳人)


(注)花田春兆著『鬼気の人―俳人富田木歩の生涯』((株)こずえ、1975年)には、障害をもった立場から木歩が描かれている。山本健吉はその序文で「命二つが触れ合って火花を発している」作品と称賛した。

(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「ノーマライゼーション 障害者の福祉」
1999年9月号(第19巻 通巻218号)