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クラーク勧告の意味するもの
-歴史的検証-

伊勢田堯

 筆者は、今年の5月にパリで開かれた「世界心理社会的リハビリテーション学会」に参加した。そのワークショップで、小川一夫氏(都立中部総合精神保健福祉センター)がわが国の精神科病床数の経年的変化を示したところ、一斉に驚きのどよめきが会場を包んだ。
 世界の先進諸国では、すでに「脱施設化」を終え、地域型の精神医療・保健・福祉サービスに転換している。特に、この数年の改革の前進はめざましく、先進地域での精神病床数は人口1万人に4~6床の水準にまで達している。地域型への転換が遅れたと自認するフランスでさえ11床である。わが国の場合は、国際統計にならって、65歳以上を除くと約21床になる。世界の主だった国で、このように多くの精神病患者を、しかも長期に入院させている国はもうなくなってしまったのである。西欧諸国が1955年前後をピークに精神病床数を減らしてきたのに対して、わが国は全く反対に病床数を増やし、何と1993年まで増え続けてきたのである。ざっと40年遅れということになる。
 今から振り返れば、このように西欧諸国が脱施設化を終えようとしている時期に、病院収容のピークを迎えるという惨めな結果を防ぐチャンスは、わが国にもあった。その一つが1968年のクラーク勧告の時期である。WHOは、英国ケンブリッジの精神医療改革で実績を上げたDHクラーク氏を日本に派遣した。日本側の責任者であった加藤正明国立精神衛生研究所所長(当時)による翻訳・紹介(文献1)をもとに、当時の事情を検証してみる。
 当時の日本は、1966年で精神病床は人口1万人対18.5床であり、なお増え続け、社会精神医学も「理解も応用もされていない」状態にあった。クラーク氏は3か月間にわたって調査し、洞察に富んだ勧告をした。しかし、その後の経過は、残念ながら勧告の反対の方向に進んだ。つまり、この勧告は全く無視されたのである。加藤正明氏は、今年3月の日本社会精神医学会の講演で、当時の厚生省の課長がクラーク勧告に関する記者会見で「斜陽のイギリスから学ぶものは何もない」と話し、全く注目されなくなった事情を紹介している。
 今日から見れば、この政策決定は後世に重大な禍根を残すものとなった。というのは、先進諸国では、脱施設化政策への合意は形成され、しかも少なくない国々で実行に移されていた時期であり、また、当時は病床数の削減は現在ほどには必要なく、病院の閉鎖をしなくても済む比較的痛みの伴わない政策転換であったからである。実際に、わが国でもそのような選択をした地域があった。神奈川県は、精神病院の新設を認めなかったことで、人口1万人対16.2床(1988年〉で、当時としては国際的にも遜色ないレベルを保っていた。ちなみに、神奈川県は地域精神保健活動が盛んなことで知られている。
 世界に目を転じると、興味深い地域がある。オーストラリアとニュージーランドがそれである。イギリスの社会精神医学の権威であるDHベネット氏らを顧問として招き、「世界の最高の実践を普通の実践に」を合い言葉に、施設収容時代を経ないで、いきなり地域型のサービスを展開した。両国の病床数は、1994年の時点で、それぞれ人口1万人対5.1床と4.4床であり、素晴らしい実践活動が展開されていると聞く。「斜陽の国から学ぶものはない」とクラーク勧告を受け入れなかったわが国とは、対照的である。
 クラーク氏は、その後何回か来日し、20年後(1988年)には私的な報告書(文献2)を出している。そこでは、「この20年間、…経済的には繁栄したが…、日本の精神保健サービス組織は、ほとんど変化しなかった」「精神病院の患者数は、その多さで世界でもやっかいな傑出ぶり」と厳しく断じている。
 さて、32年を過ぎた現時点ではどうか。事態は改善されるどころか、先進諸国との格差は拡大している。「やっかいな傑出ぶり」から「世界の孤児」になった感がある。クラーク勧告の7項目を追ってみよう。
1、厚生省内の精神保健局はできておらず、障害者基本法により身体・知的障害と同等の地位が与えられるようになり、改善されつつあるとは言え、依然として低い地位のようである。
2、精神病院の状態は、積極的な病院での質的前進と充実はあるものの、施設収容が著しく増大したという意味で、全体としては、むしろ著しい後退と言わざるを得ない。
3、精神病院の統制も遅々として進まず、遅まきながら、昨年の精神保健福祉法の改正で精神医療審査会の強化がうたわれたにとどまっている。
4、医療保険制度では、かろうじて外来通院公費負担制度が発展し、治療やリハビリテーションを促すものになってきたが、全体として診療報酬上の精神科の地位は低いままで、一般科の3分の1から半分である。
5、6、7、アフターケア、リハビリテーション、専門家の訓練の面ではかなりの前進があり、力は蓄積されつつある。しかし、地域型サービスは草の根運動に依拠し、多くは施設型リハビリテーションの枠内のものであり、当事者・家族の要請に応えるほどには発展していない。
 ところで、筆者も1988年クラーク氏が改革されたフルボーン病院に留学した折、2回先生のご自宅でお話をうかがう機会があった。クラーク勧告以後の経過については残念がっておられたが、日本の地域精神医療・保健サービスの発展は信じて疑わない態度であり、われわれの責任の重さを痛感した。
 これほど長期にわたって、目先の利にとらわれ大局を見失い、世界の孤児になった感のあるわが国にあっては、関係者がその責任を自覚し、思慮深い思い切った決断をしなければ、「鎖国状態」から脱することはできないのではないかと痛感する。

(いせだたかし 東京都立多摩総合精神保健福祉センター)


【文献】
(1)D.H.Clark(加藤正明監訳)日本における地域精神保健-WHOへの報告(D.H.Clark著、秋元波留夫ら訳『精神医学と社会療法』、196-229、医学書院、1982)
(2)D.H.Clark:Japanese Mental Health Services 1998-Report of Visit and Cmments

クラーク勧告(1968年)の要旨

1 政府に対する勧告

 精神病院の長期在院患者が増大しており、地域精神衛生活動が十分に発展していないので、精神医学的中央管理を強化することを勧告する。
1.精神衛生を公衆衛生、児童福祉などに匹敵する部局にする。
2.厚生省の職員に、有能な若い精神科医を配置する。当面、定年退職教授などの著名な専門家に新設の精神衛生局を指導してもらう。
3.国立精神衛生研究所・国立国府台病院の拡充。

2 精神病院の改善

 日本では、精神病院に非常に多数の患者がたまり、長期収容により無欲状態になり、国家財政を圧迫している。社会療法、作業療法、治療的コミュニティーが有効なので、入院患者の増加を防ぐため、積極的な治療とリハビリテーションを推進すべきである。

3 精神病院の統制

 精神病院の資格を取り消す権限をもつ国家的監査官制度をつくるべきである。監査官は、常勤で高給の精神科医および他の専門職からなり、患者数などの物的基準だけでなく、医療の質の向上にも関心を払う。

4 健康保険制度

 入院治療より外来治療を刺激するものとし、精神療法は高度の技術を要するものであり、外科と同等がそれ以上の診療報酬にすることが望ましい。

5 アフターケア

1.精神科医および地域ソーシャルワーカーによる外来クリニックを強化し、治療(投薬と精神療法)、長期のフォローアップ、地域社会にいる精神分裂病患者の生活支援に当たる。
2.地域の働き手であるソーシャルワーカーと保健婦に精神医学の訓練をする。
3.地域社会に、夜間病院、昼間病院、保護工場、治療的社交クラブの施設を整備する。

6 リハビリテーション

 精神欠陥者のために、厚生省は労働省と協議し、以下の制度を整備する。
1.労働省職員をリハビリテーションの専門家として任命し、訓練をする。
2.地域社会内に保護工場を設立する。
3.給料を支給し、生産物を市場に出せる、政府がスポンサーとなる保護工場を設立する。
4.精神病に関する労働法の改正を検討する。

7 専門家の訓練

1.精神科医
  厚生省と日本精神神経学会は、社会精神医学の国家資格の検討を行う。
2.精神療法の奨励
3.精神科看護の資格化
4.作業療法の学校の増設
5.ソーシャルワークの発展の促進

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