イギリスの精神障害者施策の現状
1 医療サービスの供給
長谷川憲一
戦後半世紀のイギリス精神障害者施策の基調は、入院治療中心から地域(コミュニティー)ケア体制を構築することにあった。イギリスの精神病院の病床数は1957年にピークを迎えたが、その後一貫して減り続け、精神病院から退院した患者は、地域を基盤とする支援を受けて社会生活を送れるようになるはずだった。しかし、地域ケア資源開発は精神病床削減のスピードに追いつけず、路上生活者、精神障害者による犯罪などが非難され、「地域ケアの失敗」という見方をされた。地域ケアの実現に向けて本格的な方針がまとまるには、1990年の「NHSと地域ケア法」を待たねばならなかった (1) (NHS-国民保健サービス:日本の厚生省に相当する)。
現在、イギリスでは先進地域やいくつかの分野で地域ケアが成功を収めているものの、全国的に見るとなお整備途上にある。しかも、地域ケア実施について中央政府の責任は明確でなく、地方自治体任せであるため、全国的なレベルアップにはなお時間を要すると思われる。
本論では、紙面の制約からコミュニティーケア体制のなかで、特に重要と思われる医療サービス、社会的サービス、包括的サービスの構築の3点に限って、その理念と実際の概略を紹介したい。
かつて、精神医療は全国100余りの精神病院によってもっぱら担われていた。現在はGP(一般医)が窓口になり、専門医への紹介、外来治療の継続・アフターケアに参画するようになった。専門治療の場も精神病院は第一線から退き、総合病院精神科、デイホスピタル、精神科クリニックへと広がりを見せている。
地域責任(キャッチメントエリア)制においては、NHS保健地区の中で人口数万ごとのセクターが医療活動の基本単位となっている。各セクターは20~30床の急性期病棟、デイホスピタル、保健センターなどをもち、地域精神科看護婦(CPN)を中心とした地域精神保健チーム(CMHT)を組織して、訪問ケアを行っている。
精神病院の閉鎖にともなって退院した患者のフォローアップ調査は、レフらによって10年余にわたって行われたが(TAPSプロジェクト)、地域に退院者を受け入れる施設を整備すれば、自殺やホームレス、犯罪などを起こす患者は決して多くないと報告した (2)。
しかし、精神病院に最後まで残った最重症患者が従来と変わらぬ劣悪なケアを受けている点。新たな長期入院を避けようとするあらゆる努力にもかかわらず、6か月以上地域の居住施設に移動させることができないnew long-stay patientsは、適切な施設がないために総合病院の急性期病棟を占領している点などが問題となっている (3)。new long-stayは、おおむね人口10万対6.1人存在するとされ、集中治療ホステル(ward in a house)が適切であると勧告されているが、まだ十分には普及していない (4)。
2 社会的サービスの提供
(1)ニーズに応じたさまざまな住居(レジデンシャルケア)
コミュニティーケアの前提となるのは、病院以外の居住施設である。言い換えるならば、精神病院が住居代わりに使われてしまったことが問題であったともいえる。精神病床の減少に伴って、障害者住居手当を受けて民間のナーシングホームやその他ボーディングホームを利用する退院患者が増えたが、そこでは精神障害者に対する適切な治療は行われず、生活のための住居としても劣悪であったために批判が集中した。
精神障害をもった人が地域で生活するうえで必要なものは、良質で小規模なふつうの住宅である。さらに、居住者の障害の程度、ニーズに合わせた援助が提供されなければならないので、さまざまなレベルの住宅を用意する必要がある。それはスタッフが24時間常駐するホステルから、時折訪問するグループホーム、アパートなど幅広い選択が保障され、必要に応じて恒久的に使用できる住居でなければならない。こうした住宅には地方自治体が提供するものもあるが、住宅供給協会(非営利)が重要な役割を果たしている (5)。
ウイングは必要数を人口10万対112人分と試算しているが、実在数はおおよそ20%程度であり、特に都市部での不足が目立っている。
また、一時的な危機を乗り越えるためのショートステイ(レスパイトケア)施設もつくられている。
(2)教育・就労・その他活動機会の提供
住居の提供とともに社会生活の基本として、個人の生活目標に沿った多様な活動機会が提供されなければならない。それも住居の中で完結する活動だけでなく、外部に広がりのある活動機会が求められる。ゴフマンが指摘したように施設症は寝る所、仕事をする所、寛ぐ所がすべて同じという環境下で生じやすいからである。
しかし、精神障害者の就労機会は長期にわたる不況の結果、非常に狭まっている。代わって、教育による就労機会の拡大、地域の市場に参入できる商品をつくる作業所、利用者が経営する喫茶.食事サービス、日用品販売などがさまざまに工夫されている。また、イギリスには宗教に関連したボランティア組織の歴史があり、さまざまな運営母体による多様なデイサービスが行われてきた。
また、デイサービスはデイホスピタルと共通のプログラムを持つことが多く、デイサービスは社会サービス、デイホスピタルは医療というように差異を強調することは生産的ではない。ともあれ、1975年の白書では人口10万対30人分のデイホスピタル、60人分のデイケア設置を目標にあげたが、これもまだまだ目標に達していない (6)。
3 混合経済によるサービス供給
イギリスの医療はNHSによる国営で行われてきた。しかし、1990年新法によって、NHSは直接的サービスから手を引き、サービスを供給する独立機関(プロバイダー:供給者)から患者(ユーザー:利用者)に必要な医療サービスを購入する役割(パーチェサー:購入者)を担うことになった。
これは、社会主義的管理に資本主義的市場原理を導入した「混合経済」であり、それによってお役所的非効率を払拭し、供給者間の競争を通じて利用者優先で高品質、かつ費用対効果の高いサービス供給を狙ったものだった。
混合経済は医療だけでなく、社会サービスについても導入され、地方自治体の社会サービス局は居住ケア、デイサービス、作業所などのサービス提供者から、適切なサービスを購入する仕組みになった。
そして、この混合経済と関連してサービス提供の方法も、医療サービスはケア・プログラム、社会サービスはケア・マネジメントに依拠することになった。これらは利用者個人のニーズを包括的に評価するという共通の特徴をもっており、利用者と援助者に幅広い選択肢と最大限の決定権を与えるものである。また、トップダウンからボトムアップへ、供給者優位から利用者側のニーズ優先への変化を含んでいる。
ケア・プログラムやケア・マネジメントは、うまく機能するなら当事者-治療者関係に根本的な変化をもたらす可能性がある。すなわち、当事者は精神の障害にもかかわらず、可能な限り普通の生活をしようとして努力している主体者であり、治療者は当事者の求める生活目標を尊重し、その実現に協力する者になるからである (7)。
イギリスの精神障害者施策は、精神障害者の人権を尊重し、地域の中に迎え入れて質の高い生活を保障することが、医療コンプライアンスの向上、結果的には地域社会の安全・発展につながるのだという信念に支えられている。そして、こうした考えが精神科リハビリテーションの世界的潮流をリードしてきているように思われる。しかし、実際には経済的制約や偏見などによる揺れ戻し、失敗を経験してきており、常に改革を続けなければ先駆者の位置を保つことはできない。
(はせがわけんいち 群馬県立精神医療センター)
【文献】
(1)Department of Health:NHS and Community Care Act.HMSO,London (1990)
(2)Leff J,Thronicroft G, Coxhead N et al:The TAPS project 22:five year follow up of long stay psychiatric patients discharged to the community.British Journal of Psychiatry, 165(supplement 25):13-17(1994)
(3)Lelliot P,Wing J:A national audit of new long stay psychiatric patients I:Method and description of the cohort British Jounal of Psychiatry, 165:160-169(1994)
(4)伊勢田尭、兼子直、Singh K・他:イギリスにおける新たな”ward in a house”の試み.臨床精神医学、19(3):413-423(1990)
(5)長谷川憲一:英国ケンブリッジの精神科リハビリテーション活動-新法施行のもとでの発展-.臨床精神医学、25(1):117-125(1996)
(6)小川一夫、長谷川憲一、伊勢田尭:イギリスのデイケア事情.デイケア実践研究、3(2):16-22(1999)
(7)Shepherd G:Recent development of psychiatric rehabilitation.-長谷川憲一・他(訳):精神科リハビリテーションの最近の発展.精神障害リハビリテーション、1:56-70、(1997)
(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「ノーマライゼーション 障害者の福祉」
2000年7月号(第20巻 通巻228号)