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もう一つの財団法人

高田三省

 ヤマト福祉財団で働かないかと誘われたとき、私は何度も二の足を踏んだ。この種の財団には、とかく慈善事業的なイメージがつきまとう。それが嫌だった。「障害者福祉なんて、それは本来、国がやるべき仕事じゃないですか」などと青臭いことを言って首を縦に振らなかった。誘ってくれた人は「そんなことを言ってたら、いつまでたっても障害者はよくならないよ」と言い、結局その言葉に説き伏せられた。それから7年になるが、まさに焼け石に水のような、おカネをばらまく仕事は私にはやはり気持ちよいものではない。それもあってか、このごろよく考えることは、財団として、障害者を取り巻く一般社会へ向けての仕事がもっとあってもよいのではないかということだ。障害者と対面しての営為ではなく、障害者を背に、外へ向けての活動だ。障害者に対する周囲の人々の心のバリア対策、勇ましく言えば社会的偏見の排除、差別意識打破のための啓発活動である。
 心のバリアについての事例は枚挙にいとまがない。私が真っ先に想起するのは、ハンセン病治癒者のHさんの場合だ。
 Hさんは、あるとき白内障の治療のために近郊の病院を訪ねた。顔や手先に病気の痕跡があることでもあり、Hさんは臆せず医師に自分の病歴を話した。医師はHさんを待たせて別室で病院長と相談、その結果、施療、入院は認めるが、ハンセン病のことは院長と医師だけの秘密事項とする、看護婦にもしゃべらないことを固く約束させられた。私がこだわるのはその理由である。
 「たとえ治癒しているとはいえ、あなたの病気のことが知れると明日からこの病院へほかの患者が来なくなる」、病院側はそう言ったというのである。本当に病院の言うとおりだろうか、とまず思った。いや、やっぱりそうかもしれない、と思い返す。けれども、病院側がHさんに「隠せ」と言うのは正当なことなのか。たとえ病院側が危惧するような事態になったとしても、絶対に心配ご無用だと来院者を説得すればよいではないか。いやそうあるべきだ。それが病気の専門家である病院関係者の義務ではないか。
 が、とかく道理が通らないのが世の中である。病院が惧れた人心のバリア、それを突き崩すには相当な知恵とエネルギーを必要とする。不断に、かつ、いろんな方法でそこを照射し、不当な社会意識を変えていく、そんな目的をもった財団法人があってもよいのではないかと思う。

(たかださんせい 財団法人ヤマト福祉財団常務理事)