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文学にみる障害者像 51

シャフィーク・マカール著
『黒魔術』

高橋正雄

 『黒魔術』 1) は、現代エジプトの作家シャフィーク・マカール(1925~)が1982年に発表した作品で、精神障害者として入院させられた役人を主人公とする小説である。しかしそこには、主人公の精神分裂病を思わせる症状と、医療関係者や家族に対する不信が描かれているため、幻覚妄想状態にある患者が、周囲をどのような眼で眺めているかを考えるうえでも、示唆的な作品になっている。
 この主人公が入院させられたのは、「こんな事が偶然に起こるはずはない。〈中略〉誰かが何かを意図しているに違いない」といった妄想的な想念に駆られ、疾走するタクシーから飛び下りて大ケガをしたためだった。しかし主人公は入院後も、5階にある病室の窓からさまざまな人間が出入りして、自分に話しかけたり、危害を加えてくるという恐怖に脅え、彼らが「私について内側も外側もすべて知り尽くして」、執拗にその包囲を狭めてくるといった妄想に悩まされていた。
 そのため医師たちは、精神科医に診察を委ねたが、主人公は、医師のことを「彼等の無知や誤謬を暴露し、彼等の医学的所見を次から次へと変えるはめに陥らせたことで、私に恨みを持ったようだ」と疑うのだった。
 一方、彼の妻は、病院の対応に賛成していたが、これについても、主人公は、妻と病院がぐるになっていると考えていた。そして、精神科受診により夫の頭が正常でないという証拠を手に入れた妻が、「夫を禁治産者にしたり、夫の持っている金をすべて奪い、彼をクッション付きの壁に固まれた、窓のない独房に監禁することが適当だと見なすかもしれない」と不安になるのだった。
 精神科医は、主人公のことをヒステリー性の昏迷状態かアヘン使用の疑いもある精神分裂病と診断した。だが、妻は中毒という病名を公表するにとどめた。この病名なら、「西欧やアメリカでの幻覚剤の氾濫を考えれば、不名誉な病気というわけではなく、恥じることもためらうこともなしに、話題にすることができた」からである。
 主人公に対する態度を変えたのは、妻だけではない。病院に見舞いに来た主人公の姉は、「自分の身を守るように、ベッドから遠く離れて座った」。また、主人公がただ1人心を許していた娘も、態度を変えた。主人公は「どうしたら娘に、私の苦衷をわかってもらえるだろう」と思ったが、娘は「まるで生まれて初めて見るように、私の顔をじっと見つめた」。結局娘は、主人公が毛嫌いしていた若者と結婚し、父親の病気のことでいづらくなった町を去っていった。
 役所の上司も見舞いにやって来たが、彼らは「私の前に座ると、あきれるほどの大胆さで、私の境遇を嬉しそうに眺めた」。主人公は、かつての同僚たちが次々に私を見舞い、満足そうに自分の境遇を眺めるのを見ると、「他人はすべて敵であり、その一人の死、失墜、滅亡は、それ以外の人間にとって勝利であるという至言」を、今更ながら実感するのだった(このあたりの認識には、トルストイの『イワン・イリッチの死』2)を想起させるものがある)。そんな彼は、学生時代からの友人に電話して保護を求めたが、「黒魔術をなりわいとする一味」が体内に入り込んで乗っ取るといった、了解困難な話を聞かされた友人は、麻薬中毒患者のたわ言と見なすだけだった。
 こうして主人公の入院は長引き、それにつれて状況はますますひどくなった。「すべての人間が、私と話す時に警戒するようになり、何かを行なう時に用心するようになった」。
 看護婦たちは、彼が精神病だと知るや、羞恥と警戒のベールを脱ぎ捨て、彼の前で真面目に働くことをやめて、医師と患者の醜聞など、病院の秘密をあけすけに語るようになった。また、医師たちも、「さも私の言うことに耳を傾け、何か考えているように指であごをさすりながら私を見る」が、そのくせ、だれも主人公の言うことなど聞いていないのだった。
 そのため、主人公は、「やつらの中のたった1人でいい、それが男だろうと女だろうと構わない、とにかく1人の人間が、私に起こった出来事の真相を知り、私を助けてくれるということはないのだろうか?」と思うのだが、自ら「私の性格は、日ごとに悪くなっている」と認めるように、彼は見舞客や看護婦を心ない言葉で傷つけるようになった。そして、「私は本当に狂ってしまったようだ」と疑いだした主人公は、彼の部屋に出入りする幻の人間からも、「あなたは完全に狂ってしまった」と断言されるに至るのである。
 このように、『黒魔術』には、対話性幻聴や自我障害といった精神分裂病を思わせる症状のみならず、そうした状態に置かれた患者が、周囲の人々をどう認識し、どんな思いでいるかが描かれている。そこには、気違い扱いされるだけでまともに話を聞いてもらえないことへの苛立ちや、家族や友人から見捨てられるのではないかという不安など、妄想患者の心理がリアルに描かれているのである。おそらく、この主人公の病状が悪化の一途をたどり、周囲を傷つけるようになった背景にも、彼のことを親身になって心配してくれる味方がいなかったことが、影響しているのであろう。
 また、精神病理学的な観点から興味深いのは、患者が自らの精神状態に自信を失っていくのに呼応して、幻覚の相手からも「気違い」というレッテルを貼られていることで、これは、幻覚には患者の不安が反映した部分があることを示唆する現象である。さらに、妄想体験を経過する中で、妄想に対する主人公の態度が変化して、「必要以上の重要さ、真剣さ、深刻さを物事に与える習慣がなくなった」とか「他人には何も求めるな、そして何人も恐れるな」と語っているあたりは、晩年のジャン・ジャックルソーにも見られる妄想への慣れや距離を感じさせる現象である 3) 。
 いずれにしても、『黒魔術』には、妄想的な不信に満ちた病者が、一方的に観察・治療されるだけの存在ではなく、さまざまな思いで医療関係者や家族の言動を眺め、そこに独自の解釈を施している様子が描かれている。そしてそこには、多少歪んだ形でではあるが、心ない対応で患者を傷つける医療関係者や、世間体を気にするだけの打算的な家族、他人の失脚を喜ぶ同僚の姿など、欺瞞的な現実に対する鋭い洞察が含まれていることも、事実なのである。

(たかはしまさお 筑波大学心身障害学系)


〈参考文献〉
1)シャフィーク・マカール(高野晶弘訳)『黒魔術-上エジプト小説集-』第三書館、1994
2)高橋正雄「文学に見る医師像(第30報)」日本医事新報、3818:47-49、1997
3)高橋正雄、中野良吾「ルソーの『孤独な散歩者の夢想』」精神分析、7:101-112、1999