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二次障害考(3)

二次障害は密かに突然やってくる

山口成子

 私は美術学校を卒業し、在宅生活を送るようになったら、どこからも時間を制約されない環境の中で、好きな絵を描きながら自分がどこまで人に頼らず、生活できるのかを経験したいと考え、密かに自分の中で計画を立てていた。
 現在では、自分で手足を動かすことが全くできないが、当時は、油絵を描いたり、食事をしたりする時もお箸を持って、ご飯を食べられるくらい指先も自分の思い通りに動いた。美術学校の階段も、手すりにつかまれば自分でゆっくり上ることもできたほど、体の状態が良かった。二十歳から二十五歳までは、脳性マヒの特徴である緊張もアテトーゼも養護学校の時代より弱く、とても動きやすかった。体のコントロールもわりとうまくできたのである。
 その後、両親を説得し、家族から少し離れたところに、アトリエ兼住居で暮らし始めた。その頃は齢が若かったこともあって、かなり歩けたし、トイレやお風呂も介助の手を借りずに自分で何とかできていた。できれば五年くらいは、がんばるつもりでいた。
 そして、自立生活を始めて一週間が経った。家族は何か緊急を要する状況が起きた時のためにと、非常ベルを付けてくれた。それを押すと、母屋のベルが大きく鳴るようになっている。しかし、自分の中では、「できるだけそのベルを押さないでいよう」とがんばるつもりでいた。
 朝、九時に起きてから、服の着脱に一時間以上かかる。服のボタン一つかけるのに、十分以上かかるのである。
そして洗面を済ませ、車いすに乗る頃には、十二時を過ぎてしまう。自分で生活することが、これほど大変なことだとは思わなかった。今では、リクライニング式電動ベッドや、移動用リフトなどを使っているが、当時はこのような福祉機器はなかったため、ベッドから起き上がるのに、天井から綱を下げ、それを手で引き寄せながら、起き上がることを考えた。車いすの乗り降りは、部屋の壁に手すりを付けてつかまりながら移動していた。
 おしっこが我慢できないのは、幼い頃からの大きな悩みだった。がんばって、車いすに乗って、トイレに入った瞬間にもれてしまうことが多いのだ。
それは、運動不足や冷え症のために、我慢できないと思っていたが、このような症状も頚椎の不随意運動によって、中枢神経が圧迫され、それによって尿のコントロールができにくくなっていたのである。それでもがんばって、車いすに乗り、自分でトイレに行き、壁に寄りかかって立ち、パンツやズボンを上げ下げすることができた。とにかく、排せつの問題は今でも大きな悩みであり、現在では外出時にはオムツは欠かせない。
 ひと月が過ぎた頃から、少しずつ疲れが出てきた。トイレでよく転んだり、車いすから転倒したりした。トイレまで間に合わないため、ベッドの脇にポータブルトイレを置き、それを使うようになった。とうとう下着の着脱もできなくなって、下半身は服をつけなくなった。そして真冬の夜遅く、トイレで起きたのだが、ベッドの外で転んでしまい、どうしてもベッドに上がれなくなった。夜も更け、朝日が昇りかけていた。一晩中裸で床を這いずり回って、ようやく非常ベルを押した。その時、地獄を見た気がした。
 この時初めて、自分の限界をいやというほど思い知らされた。それまで、私の中にあった自立に対する概念が大きく変わったことを、今でも忘れられない。そして、私にとって、介助者は必要不可欠な存在だと感じた。現在では一日二交代で、二十四時間介助を受けて生活をしている。
 それから三年後、首と腰に激痛が走るようになり、指先から痺れが出始め、起きることができなくなった。その後、痛みを和らげるため、針等あらゆる治療を試みたが、痛みはとれなかった。
 そして三十歳の春、二人姉妹の妹が結婚し、突然母が亡くなった。精神的にも肉体的にもその状況から、どう抜け出せばよいのか悩んだ。その後、突然首から下が全く動かなくなった。病院を転々とした結果、「脳性マヒによる極度の緊張」「幼い頃からの不随意運動」「度重なる転倒」「精神的なストレス」などが重なったのが原因だと医者は言った。
 脳性マヒという障害をもちながら、この社会の中で生きていくためには、どうあがいても、この四つのことは、生まれた時からこの世を去るまで避けられないのである。このことをいかに最小限に抑えられるかが、私たちに与えられた課題であろう。
 二次障害は、医学的に少しずつ解明されてきたが、まだまだ解明されないことが多い。たとえば、私の友人に同じ障害をもつ七十歳になる人がいる。
その友人は五十歳まで全く家から外に出なかった。それまで家族に守られ生きてきたが、親の高齢化によって少しずつボランティアがかかわるようになった。そして、五十歳の時、初めて外に出たその友人は、現在七十歳を迎えてもあまり二次障害はでないという。
 脳性マヒという障害をもっと、遅かれ早かれ二次障害はやってくると私は思っている。なぜならば、二次障害の原因は、脳性マヒによる緊張からくるものだということは、医学的にもようやく解明されてきた。私たち脳性マヒという障害をもつものにとっては、緊張からは死ぬまで避けられないことである。しかし、私の友人に見られるように、緊張の少ない生活をおくることによって、二次障害を早めることをくい止めることはできるであろう。
 二次障害は、まだまだ当事者たちにとっては的確な情報を得ることが難しい。早期発見、早期治療と医者は言うのだが、私の場合は今から二十年も昔ということもあり、いつ頃から二次障害に侵され、症状がどのような形で出てきていたのか、私自身分からなかったし、医者もどう対処していいのか悩んでいた。
 二次障害は、もしかしたら、脳性マヒという障害をもった時から始まっているのかもしれないと私は思う。今となってはどこの病院に行っても手術は手遅れで、不可能だと診断を下されるが、それはそれで、今のあるがままの自分を受け止めるしかないのである。
そして痺れや痛み、排せつの悩みや呼吸困難など、あらゆる障害と向き合っていかなければならない。たとえ寝たきりになっても私は私でありたいと思っている。私にはまだやりたいことがたくさんある。あまり無理をせずに実現させたいと思う。
 脳性マヒによる緊張が、二次障害の主な原因だとすれば、その緊張を少しでもほぐすことを心がけていかなくてはならないだろう。そのためには、楽しくリラックスした生活を送りたい。

(やまぐちしげこ ハンズ世田谷理事長)

(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「ノーマライゼーション 障害者の福祉」
2000年12月号(第20巻 通巻233号)