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文学にみる障害者像 55

クレア・ベヴァン著
『車いすにのったアーサー王』

-伝説の王の再来は車いす少年-

山県喬

一 物語の背景

 現代イギリスの児童文学作品。
 作者のクレア・ベヴァンは体の不自由な子どもの養護学級の教師をつとめた人。子どもたちに、自分たちと同じような子どもが主人公になって活躍する話をしてほしいとよくせがまれた。
そこで思い切って教師をやめて本を書くようになった。その第一作という。
 原作は『ペンは剣よりも強し』といい、一九八九年イギリスで出版され、新人賞を受賞した。
 この物語の下敷きになっている『アーサー王伝説』は、日本でたとえれば『桃太郎』などのように広く子どもたちに親しまれているようである。
 アーサー王は六世紀頃の伝説的人物で、西ブリテンに城をかまえ、アングロサクソン民族の侵略を防いだ。そしてよく敵を征服したが、ついにコーンウォールで戦死した。
 王とその円卓騎士たちについての伝説が流布したのは、十二世紀頃からでヨーロッパ各地で物語歌として吟唱されたという。
 王妃グウィネヴィア、魔法使いマーリンなども主要な登場人物で、尚武・剛胆・高潔・友愛など騎士道の美徳を表現している。
 以上のことを踏まえておくと、この作品がよく理解できる。

二 物語のあらすじ

 都会から離れた田舎町の牧師館にアダムという車いすの子がいる。牧師である父はもちろん、母親も善良、兄だけがちょっときついが、まあまあ文句なしの家庭である。
 しかしアダムは、自分だけ毛が赤いとか、病気のせいもあるが文字が格別下手ということなどもあって、自分はほんとうは捨て子だったのではないだろうか、と落ち込むことがあった。
 学校ではアダム一人が車いすで他は非障害だが、友人たちも先生も全く公平で屈託がない。
 定年間近のミルナー先生が「アーサー王と円卓の騎士」の物語を読んであげると、子どもたちはそれをとても楽しみにした。
 一方で、アダムのことが気がかりな先生は、ある日一本の万年筆をアダムに与える。それには「エクスカリバー」と銘が刻んである。その名はアーサー王の名剣の名であったからアダムは欣喜雀躍した。そして文字は上手になるし、性格も明るくなった。
 やがて子どもたちの遊びの中で「アーサー王ごっこ」が盛んになり、アダムが王になっていた。お転婆のジェニーをアダムは王妃ダウイネヴィアにと望んだのだが、ジェニーは魔法使いマーリンを選んだ。そしてみんなで武芸試合ごっこなどをしているのだが、やがてこの田舎町に事件がもち上がった。
 ゴミ公害といえば、今や世界中に蔓延しつつあるが、この町もご多分にもれず、たとえば牧師館にも使えなくなった粗大ゴミがちょくちょく持ち込まれたりする。
 それはそれとして、以前美しかった池の水がすっかり汚れ、ゴミ溜池になってしまい、周辺の古木たちも見るかげもなくなってしまっていた。
 そこである建設業者が乗り出してくるという。池を埋め立て、林を伐採し、優雅な別荘地帯を造成するというのだ。そのほうが地域の活性化のためにもなるらしい。その原案を作ったのは、意外にも良識あるはずのモア博士という人物らしかった。
 住民たちの眠っていた良識が目覚めた。
 老人たちはジャブジャブと池の中に入ってゴミ掬いを始めた。アナグマさんという自然保護に熱心な人物が、造成反対の署名運動を始めた。しかし時間は切迫していた。建設業者のトラックが侵入してくるようになる。
 アーサー王を中心とする子どもたちが立ち上がった。武芸ごっこどころではない、今こそ真の敵に向かって戦いを始めなければならない。
 ミルナー先生も心を傷め、みんなに建設業者とモア博士に手紙を書かせた。
みんなの作文がまとめて送られた。
 ある日、子どもたちが池のほとりに行ってみると、老人たちの努力のおかげで池はずいぶんきれいになっていた。
しかし建設資材も積み上げられていて、もはや手遅れとあきらめるしかなかった。
 そこに一人のみすぼらしい小男がやってきたのである。子どもたちと話し込んでいるうちに、その小男こそモア博士だと分かった。博士は、子どもたちの作文をたずさえていて、心を動かされたというのである。
 「じゃあ、計画を変更なさるってこと?」ジェニーが叫んだ。「わあ、モア博士、すてきィ!きっとそうしてくださると思ってたわ」。

 以上が、物語の豊かな彩りをとり払ったストーリーの骨子である。牧師館の暮らしの様子、奇妙な飼猫、そして一人ひとり個性豊かに描かれた多勢の子どもたち、原作の味わいはやはり原作で楽しんでいただきたい。

三 感想

 ところで若干の感想を述べたいと思う。
 実は小生も養護学校勤務の後、若干児童文学を書いたので、その点でも興味の深い作品である。教師としての経験と眼差しがいたる所に生かされているのが、最も作者としての強みであろう。
 その点、ミルナー先生と子どもたちのかかわり方に熟練した手腕を感じた。
たとえば、アダム一人に万年筆を与えるのは不公平なことであるが、みんなにはそれを感じさせない気くばりをしている。この万年筆によってアダムは蘇生するわけで、とても重要なシーンなのである。作者のクレア・ベヴァンが養護学級の子どもたちに頼まれたお話は、みごとに成功したと言えるだろう。その宿題を果たすことが、現在私たちがめざす「共生」の社会の一つのサンプルになった。障害者も添景としてではなく、主人公になることによってその目的が果たされたと言えるだろう。さらに敷衍して言えば、障害者も非障害者も区別なく、時には主役になり、時には傍役になるのが理想的な姿だと思う。
 一つだけ気にかかる点がある。
 それは意外と容易に問題が解決した点である。モア博士の描き方にやや奥行きの浅さを感じてしまった。目的は達成させたいが、世の中、そう甘くはないのが現実と思う。
 シドニーのオリンピックの頃に原稿依頼を受け、今はちょうど、パラリンピックも華やかに終わりを告げた。
 今回のパラリンピックに注がれた世界中の熱い眼差しは、従来と格段に違っていたと思う。世界は「共生」に向かって少しずつ良い方向に向かっていると信じたい。

(やまがたたかし 児童文学作家)