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文学にみる障害者像

『リチャード三世』
ウィリアム・シェイクスピア作

櫻田淳

 ウィリアム・シェイクスピアが遺した37編の戯曲は、今の世を生きる幾多の人々に対して、人間の「現実」に関する多彩な教訓を与えてくれている。英国の碩学1・バーリンは、その著『針鼠と狐』の中で、「多くの物事を知っている『狐』」と「一つの重要なことを知っている『針鼠』」を対比させたうえで、シェイクスピアを「狐」型の人物として分類している。確かに、シェイクスピアの戯曲からは、世の人々は、自らの立場に照らし合わせて多彩な教訓を引き出すことができるのであるし、その幅の広さと懐の深さこそが、人類史上最高の古典とされる所以なのであろう。シェイクスピアの戯曲の中でも、薔薇戦争を中心とする英国中世の政治抗争に題材を採った一連の史劇は、「権力」と「欲望」を巡るさまざまな人間模様を焙り出していて、それぞれに興味深い。就中、『リチャード三世』は、その人間描写の徹底性という点において、シェイクスピアの手になる史劇の傑作である。
 『リチャード三世』は、従来、数度に渉(わた)り映画の題材として扱われてきた。古くは、ローレンス・オリヴィエが監督と主演を務めた1955年版があり、近年では、監督・リチャード・ロンクレイン、主演・イアン・マッケランによる1995年版がある。また、1996年、アル・パチーノは、自らの監督第1作として、ドキュメンタリーの手法を用いて、『リチャードを探して』を発表している。わが国でも、仲代達矢、大地康雄、市村正親といった実力派の俳優が、舞台の上でリチャードを演じてきた。幾多の俳優にとって、リチャードを演じることは、相応の挑戦なのであろう。
 それにしても、なぜ、『リチャード三世』は、世に出てから400年近くの時を経ても、映像芸術や舞台芸術の世界の人々が関心を寄せる作品となってきたのか。確かに、劇中のリチャードは、「稀代の悪党」である。リチャードは、自分よりも王位継承順位が上位の身内を次々と抹殺しながら、王の権力を掌握し、前王の妃を掠(りゃく)奪し、そして権力の座から転落していく。リチャードの軌跡は、読む人々に対して、人間における悪辣を徹底して示してくれる。今では、リチャードに関しては、「英国史上、最も悪虐な君主」というのが、通り相場となっている。それだけでも、リチャードは、演技する人々には、食指を動かしたくなる役柄であろう。
 しかしながら、「俺は悪党になる」と言い放って、権力の掌握に突き進んだリチャードの軌跡の原点に、自らが障害者として醜悪な姿のままに生まれ落ちたことへの怒りがあるという設定もまた、『リチャード三世』の普遍性を高めている。後でも触れるように、もろもろの劣等意識が、権力、金銭、名誉といったものへの渇望に転化し、その渇望に突き動かされた人々は、古今東西、無数に存在する。リチャードは、多かれ少なかれ、だれの内面にも存在する。このように考えれば、シェイクスピアが描こうとしたのは、「障害者」というよりは、一般的に「劣等意識に苛まれた人々」であったということになる。事実、英国の史実では、実際のリチャード三世王が「障害者」であったかは、定かではないのである。
 振り返れば、20世紀の世界史は、数多くの「リチャード」を世に送り出してきた。ヨシフ・スターリン、アドルフ・ヒトラー、ヨゼフ・ゲッベルス、フランクリン・ローズヴェルトといったように、「戦争と革命の世紀」を演出した代表的な人物は、厳密な意味で「健常なる人々」ではなかったのである。「五体不満足な連中の思惑で、五体満足な若者が戦場で闘う」。これは、かなりのブラック・ジョークであるけれども、第二次世界大戦の実態は、そのようなものであったのである。しかし、そのことは、「障害者ですらも、途方もない悪を為し得る」ことを教えた点において、彼の地での障害者認識を成熟させているところがある。「途方もない悪を為し得る」ということは、逆に「途方もない善を為し得る」ということでもあるからである。障害をもとうともつまいと、人間とは、そうした存在なのではなかろうか。
 ところで、現在、わが国では、障害をもつ人々は、自らの体験を基にするならば、だれにでも1冊の書を表すことができる。それは、障害をもつ人々が、一般に優れた文章能力をもっているという故ではない。障害を自らの体験を基に綴った書、すなわち「障害者本」を読む人々は、大方、障害をもたない人々であるけれども、「障害者本」は、そのような人々に必要とされているところがあるわけである。「彼らは、こんな大変な状況なのに、頑張っている。私も頑張らねばな…」。おそらくは、これが、幾多の人々が「障害者本」に接して抱く最大公約数的な感慨であろう。人間にとって最も安心感を得られることの一つは、自分よりも悪しき条件の下に身を置く人々が、それにもかかわらず頑張っている姿を眼にすることである。幾多の「障害者本」とは、安心感を得たい世の人々の需要を満たすものとして出版され、消費され続けているのである。
 しかし、『リチャード三世』を読んだ人々は、どのような意味であれ、安心、共感、感動といったものを手にすることができないはずである。リチャードの軌跡は、だれにとっても、「もしかしたら、自分も、そのようになったかもしれない軌跡」である。飽くなき権力への渇望の裏には、途方もない劣等意識の塊がある。そのようなことは、だれでも程度の差はあれ共有していることなのではないか。社会的地位、学歴、収入、身長、容貌といったように、「劣等意識の塊」は、だれにも存在する。その「劣等意識の塊」を扱っていく過程とは、だれにとっても、格好の悪く、時には汚らわしく感じるものではないか。そして、そのような自らの格好の悪さや汚らわしさに真っ正面から向き合うことは、幾多の人々にとっては、耐えられないことに違いないのである。
 私が聞くところでは、英国では、一定の階級以上の家庭ならば、どの家庭にもシェイクスピアの全集が置かれているのだそうである。「第1級の政治的な国民」と呼ばれる英国国民にしてみれば、シェイクスピアの文学に触れることは、人間の高貴と下劣、愛情と憎悪に対する感覚を体得する術なのであろう。そして、そのことが、大英帝国の隆盛をも支えた「政治的な賢明さ」の前提なのであろう。その点、幾多の「障害者本」を消費し続けるわが国の人々の態度は、「幼稚」の一言で形容するしかない。
 私は、『リチャード三世』の翻案という形でも、わが国で何らかの映画なりテレビ・ドラマなりが早々に製作されるべきであると考えている。当然、そこでリチャードを演じる俳優は、「醜悪、下劣、残虐な障害者」を演じることになるであろう。それは、世に広く受け容れられるものではないかもしれない。しかし、人間の現実に対する成熟した見方を持とうとしたうえで、障害者という種類の人々を本当に理解したければ、『リチャード三世』に触れれば、それですべては足りるのではないか。少なくとも、私は、そのように考えている。それとも、この私の意見は、極端なものであろうか。

(さくらだじゅん 評論家)