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ひろがれ! APネットワーク

パキスタン
今、変化が見える

 当協会が、「財団法人広げよう愛の輪運動基金」の委託を受けて実施しているダスキン・アジア太平洋障害者リーダー育成事業は、今年5年目を迎えようとしています。この研修を終了しそれぞれの国に戻った元研修生たちは、日本で学んだことを生かしてそれぞれの夢を実現させるための活動を始めています。また、日本での研修で生まれた新たなつながりが序々に広がりつつあります。
 今月号から6回にわたって、これら元研修生の自国での活動レポートや当協会職員が訪れて垣間見た、アジア太平洋地域の障害をもつ人たちの暮らしぶりなどを紹介していきます。
 1回目は、昨年7月に研修を終えて帰国した3期生の活動レポートをパキスタンとスリランカからお届けします。

ムハマド・シャフィク・ウル・ラフマン
マイルストーン障害者協会プロジェクトマネージャー
奥平真砂子(訳・当協会職員)

私の街ラホールと私の国パキスタン

 私の住む街は、日本から遠く離れたパキスタンのラホールというところである。16世紀のムガル王朝の時代に芸術と学問の中心として帝国の中枢を担うようになり、第3代のアクバル帝のときに建設が始まった城砦フォートや、イギリス支配下時代に立てられたヴィクトリア王朝風の建築物が旧市街に多く残っている歴史ある街だ。
 ラホールは「パキスタンのハート」と呼ばれている。約800万の人口を抱え、その10パーセントは障害者だと言われている。古い街であるために狭く曲がりくねった路地は車いすで歩くのは不可能に近く、建物の入り口には階段があるのがあたりまえである。人々、特に年齢を重ねた人は歴史あるものや慣習を大切に守るために、考え方が古く偏見や因習に縛られる傾向にある。また、家族関係が強いので障害者がいるとその中で解決しようとし、社会全体の問題として出てこない。結果、ほとんどの障害者は家に引きこもったきりとなっている。識字率も低く、障害者のほとんどは教育を受ける機会を得られていない。
 これはラホールだけのことではなく、パキスタン全体に言えることである。障害のある人の約80パーセントが農村地域に住んでいると言われているが、それらのところではさらに偏見や因習に縛られる傾向が強く、障害者を取り巻く環境は悲惨なものである。道で見かけるといえば、物乞いや見世物になっている障害者である。最近ようやく障害者のための法律や制度がつくられてきているが、現実に反映されていることは少ない。また、大学の入学や雇用などに障害者枠が設けられているが、達成率は低く十分な努力もされていない。障害者自身も、自分たちの権利に気づいていないのが現状である。
 古いものに縛られる一方で、ラホールはパンジャブ大学など学校が多く、若者が街を闊歩しており留学生もよく見かけるので、新しい風もそこかしこで感じる。また、新しく開発された空港から市街へ伸びる幹線道路は道幅も広く、それと交差している用水路には常緑樹の並木が続きとても美しい。そういう街で、私は十代の頃から仲間とともに障害者運動を続けていた。

日本での研修で覚醒の時

 私は、ダスキン・アジア太平洋障害者リーダー育成事業の第3期生として2001年8月下旬から2002年7月初旬にかけて、10か月あまりの間日本に滞在した。その間、私は多くのすばらしい人と出会い、多くの新しいことを学び経験した。特に、自立生活運動との出会いは、それまでの障害者運動に対する私の考えを根本から変え、目が覚めたような感覚だった。はっきり言って、この研修は私を大きく変えた。
 昨年の7月9日、私は新しく生まれ変わった自分と多くの経験と希望を持って、自分の生まれ育った街、ラホールに帰った。空港には大勢の人が迎えに来てくれ、最初の一週間は友人たちがひっきりなしに私を訪れ土産話しを聴きたがったので、「これはいける!」と思った。しかし、日が経つにつれ訪れる人の数は減り、話すにつれ私の希望に燃える想いは萎んでいった。
 変わったのは自分だけであり、私の街は10か月前と何ら変わっていなかったのである。私はそうと気づいたとき、どん底に落ち込んだ。自分の国から逃げ出したくなった。
 しかし、そういう私を救ってくれたのが、日本の研修で出会った障害をもつリーダーたちやお世話になった人たちのアドバイスや励ましであった。その中でも昨年の10月に再来日できたことが、大きなきっかけとなった。アジア太平洋障害者の十年最終年記念フォーラムの一連の会議で、先の研修で知り合った人たちと改めて話し合ったことで精神的にエンパワーされ、ただのアイディアだったものを具体的な計画とすることができたのである。

今、変化が見える

 秋に持ち帰った計画は二つあり、一つは「自立生活センターの設立」、もう一つは日本のリーダーたちの協力を得た「セミナーの開催」であった。帰国した後は、計画を実現するために懸命に働いた。自立生活運動の考え方を広める勉強会の開催や、障害者の家を訪問するなどセンターの活動をしながら、同時にセミナーの準備も進めた。毎日、人と会い、話し合った。しばらくすると仲間が増え、彼らも一緒に動きはじめた。
 そして、今年2月6日の深夜、12人の日本の障害をもつリーダーたちがラホール空港に降り立った。これは、パキスタンで初めてのことであった。次の日から2日間は一般の人たちへの啓発を主目的としたセミナー、3日目は障害当事者対象のワークショップと交流を兼ねた「凧揚げ大会」と続いた。外国人の、それも車いす利用者が多い障害者の団体は、どこへ行っても注目を浴び、大変な効果をもたらした。第一に、多くの障害者が元気になった。第二に、今まで会ってさえくれなかった市役所の役人が私たちの意見を聞く傍聴会を開いた。そして、副市長が「ラホールをバリアフリーな街にしよう」と約束した。今はこれを実現しようと、仲間と市に強く働きかけている。
 最近、筋ジスの女性が自立生活をはじめた。パキスタンがイスラムの国であることを考慮すると、これは画期的なことである。また、仲間が増え、事務所が賑やかになった。さらに、市も公共施設にスロープを付けることを話しはじめた。少しずつであるが、変化が見えるようになった。
 これらはすべて、日本とのつながりから生まれたものである。変化は始まったばかりであり、たくさん教わらなければならないことがある。これからも人のネットワークを大切に、パキスタンの社会をよくするために活動を続けていく。