音声ブラウザご使用の方向け: ナビメニューを飛ばして本文へ ナビメニューへ

1000字提言

友達親子

佐藤きみよ

 「友達親子」という言葉がはやっているそうだ。何でも話し合えて、ショッピングも趣味も一緒に楽しむ母と子ども。
 私の場合はどうだろう? 24時間ベンチレーター(人工呼吸器)を付け、生活のすべてに介助が必要な私は、13年前病院を飛び出し自立生活〈一人暮らし〉を始めた。こんなに重度な障害者だもの、自立するのにさぞ親は反対しただろうと思われることが多い。でも全然なのである。「私も好きなことをして生きてきたから、あなたも好きに生きなさい」が母のいつもの言葉である。
 彼女が私を心配したのは、自立してから二度の大きな手術をした時と、6年前に初めて行ったアメリカ旅行の時、そして24時間の介助保障を求めて市長室前に座り込みをすることになり「今日は帰らないかもしれないし、もし座り込みの様子がTVのニュースで流れても心配しないで」と電話で言った時のわずか数回だった。アメリカ旅行の時は、出発前日に訪ねて来た彼女の顔を見て「もう二度と会えないわけじゃないんだから」とこっちが笑ってしまったし、座り込みの時は3月の寒い時期で「体のほうは大丈夫なの?」と心底心配だという声だった。
 今は、スープの冷めない距離にお互い住み、1日に1回は電話でお喋りをし、週末はよく一緒にドライブをしたり、食事をしたり、ショッピングに行く。
 病院を出る時、ソーシャルワーカーの女性が母と暮らすことをしきりに薦めたが、私は、母には母の生活があり、一緒に住むことで彼女を介助のロボットにしたくないと言った。私の介助の犠牲者に母がなり、生活に疲れきった2人が無理心中する姿が目に浮かびゾッとした。
 今の私の生活は、制度を使い有料のヘルパーさんを3人雇いなんとかケアを埋めている。母も私のケアで苦しむことはなく、私も母に迷惑をかけているという負い目もなく、2人の関係はとても風通しが良い。私がヘルパーさんと作った料理を「差し入れだよ」と言って母の家へ持って行ったりすることもよくあるし、母からも「ちょっと作りすぎちゃった」と言って大根の煮物なんかがよく届く。9歳から27歳まで親元を離れ施設にいた私は、子どもの頃の母との思い出が少なく、今はそれを取り戻そうとするがごとく一緒の時間を大切にしたいと思う。
 まだまだ家族介護をあてにしている日本の福祉だけれど、24時間の介助制度が保障され、たとえ親子であっても夫婦でも、介助に縛られるのではなくそれぞれが自分の人生を生き生きと生きることができる社会であってほしい。私の人生と母の人生が重なり合って生きるのではなく、お互いに歩む道から「オーイ! 元気かい?」と手を振り合って生きていきたい。

(さとうきみよ ベンチレーター使用者ネットワーク代表)