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愛知
アフガニスタン障害者支援プロジェクト

山田昭義

はじめに

 2001年の初冬、アフガニスタン(以下アフガンという)において戦争状態が終結し始めた頃から、DPI日本会議を中心としてAJU自立の家、愛の実行運動ではアフガンの障害者に何か支援をしなければと各々が情報収集を始めた。
 DPI日本会議では、2002年の10月に札幌市においてDPI世界会議を開催することで、各国と連絡をとっていた。しかし、アフガンは戦争が終結したばかりで全く連絡がとれずにいただけに、以前から協力を要請していた朝日新聞武田記者の現地取材報告を待って活動すること等が、常任委員会において承認され、具体的な動きが始まった。

アフガン支援に向けて

 2002年7月、具体的な準備が始まった。まず、10月15日から始まるDPI世界会議へアフガンから二人の障害者の招待、アフガンに贈る車いすを全国から集めるための準備と寄付受付、そのためのパンフレット作り、アフガン障害者の写真展全国キャラバンの手配、それらの呼びかけのための機関紙作り、さらにはそれらをまとめる組織と役割作り等々、一気に仕事が始まった。
 写真展の全国キャンペーンについては、北は北海道札幌市から南は九州の大牟田市にまで及び、東京・横浜・静岡・岐阜・愛知・大阪・神戸・広島・福岡の13か所で開催することができた。どこの会場でもアフガンの障害者の現状を紹介した写真に大きな反響があった。
 9月末、当事務局員の小倉と川原両氏がアフガン現地調査とDPI世界会議札幌大会に参加する二人を迎えるためアフガンに向かった。実質10日間という短い期間だったが、現地で多くの人と会うなど調査をしてきた。10月12日、アフガンの障害者とともに無事北海道札幌市に入った。
 現地から来日したのは、アフガニスタン障害者協会長アミール氏と副会長アクラム氏だった。どちらも戦争により障害を受けた被害者だった。二人と言葉はほとんど通じなかったが真摯な態度が言葉以上に、私たちに訴えていた。それがまた日本の人たちに大きな共感を呼んだと言える。そして、DPI世界会議札幌大会が世界110か国3113名の参加のもと、10月15日に開会した。110か国3000有余名参加の大会は国際大会にふさわしく、壮観だった。その中でアフガンの二人は戦争が終わったばかりということと、二人が戦争の犠牲者だったことでひときわ目立った存在だった。マスコミも二人の取材に集中した。
 また、現地の調査報告はとても大きな情報をもたらしてくれた。今の日本ではスチールの重い車いすはほとんど利用されていなく、ほとんどの人はアルミニウムの軽量型を利用している。アフガンの道路事情を中心とした環境は、アルミの軽いものでは対応が難しいこと、壊れた場合の修理が技術的にも不可能ということが判明し、全国から寄せてもらう車いすを重いが現地で利用しやすいスチール製の車いすに切り替えて寄せてもらうように急遽変更した。
 今後の支援のあり方についても突っ込んだ議論が行われた。日本から遠く離れたアフガンに支援を送るにしても現地で中心になってくれる人が必要であることはだれもが認めるのだが、ではそれをだれが受けてくれるかというと結論が出なかった。当初の計画では、現地に一度入ればそこでアフガンの人と繋がりができ、後はその人たちを中心に車いすを贈ればすべて良しと安易に考えていた。現実は20数年も戦争に明け暮れていた国であり、平和な日本では想像できないさまざまな問題にぶつかった。その結果、車いすを届けに行く際、責任を持った配布と今後の援助計画の方向性を再調査することになった。

物資支援

 キャンペーンに共鳴していただき、多くの方から予想を越える車いすが集まった。集めた車いすの保管場所の確保に頭を痛めるといううれしい誤算の元に、ボランティアの協力をえて車いすの整備と車いす磨きを行った。パンクしているものは直し、磨り減ったタイヤは交換し、一台ずつみんなで力を合わせて磨いた。
 事務局では、どのルートでどうやって車いすを届けるのか検討が行われた。その頃からアメリカによるイラク戦争勃発が懸念され、ルート決定には苦労した。最終的には、399台の手動車いすと5台の電動車いすと多数の修理部品、子どもたちに渡すための鉛筆とノートを中国経由でアフガンに送り出した。車いすが出港した次の日3月22日、アメリカによるイラク侵攻が始まった。
 コンテナがアフガンに着き、404台の車いすと多数の鉛筆とノートを手にしたのは5月30日だった。以来奮闘して、400人の障害者を一人ひとりの確認を取りながら、アフガン障害者協会と共同して最終的には6月20日に配布し終えた。残念なことに、当初の計画の一つであった車いす工房の立ち上げを見届けることはできなかったが、日本からの支援物資を必要な方に確実に渡すことができた点では大成功であった。
 帰国途中にはタイ・バンコクにあるアジア車いす支援センターとESCAPの障害者支援センターに寄り、プロジェクトの今後のあり方について調査をした。アフガンだけでなく、ミャンマーやバングラディシュ等々の開発途上国もアフガンに劣らず困難を抱えている国と視野に入れ、日本とDPIアジア太平洋ブロックがお互い協力し合って活動していかなければならないと忠告を受け、今後の私たちの運動の方向性に有意義なアドバイスとして受け止めることができた。

まとめ

 一昨年初冬からアフガニスタンの窮状をテレビやマスコミにより知れば知るほど何かをしなければならないと漠然と考えていた。これはけっして私一人ではなく、多くの日本の人たちが考えていたことだと言えるだろう。それがここまで多くの人の支援を得て活動できたのは、人と人の出会いという偶然が大きく作用してキッカケをつかみ、大きな活動に繋がったからだ。
 アフガンの人たちから見たら物足りないことばかりであったと自戒しながら、今後も国際交流・国際支援のあり方も新たな模索を始めていきたい。

(やまだあきよし DPI日本会議議長)