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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2004年3月号

文学にみる障害者像

斎藤真一著 『絵日記 瞽女を訪ねて』

萩原正枝

印象的な絵である。雪の中やまっかな夕日の中、大自然の中を行く瞽女(ごぜ)さん。赤と青と黒が織りなす絵。互いに助け合うように、一列になって遠い道を行く瞽女さんの後ろ姿。これらの絵は、なにかなつかしいような、悲しいような、人恋しくなるような感じがする。今はもう見られない、越後の風景の中に溶け込んだ瞽女さんの生活とはどのようなものだったのだろうか。

まえがきを紹介すると、

瞽女は、村から村へ、三味線を引き、祭文松坂(さいもんまつざか)を歌い、閉ざされた山国の寒村に娯楽を持ち運んだ盲目の女旅芸人のことである。

瞽女には、どんな山間僻地にも必ず常宿があって、彼女たちは、それを「瞽女宿」(ごぜやど)と呼んでいる。鄙(ひな)びた旅籠(はたご)ではなく、そのほとんどが農家であった。

瞽女宿が農家であったが故に、私は農民と瞽女の間には、何か計り知れない深い人情が多く潜んでいるように思えてならなかった。そして、力いっぱい生きた、名も無き瞽女たちの喜びや悲しみを知りたかった。

そこで私は、高田にいまなお健在でいる瞽女杉本キクエさんにお会いし、お話しするうちに、その純粋な人柄にあいふれ、打ちのめされてしまった。もともと民俗学者でもなければ、研究者でもない私が一人の人間として、瞽女と瞽女宿の深い人情話をしっかりカンバスの上に、記録の上に、とどめておきたいというひとつの使命感にさいなまれたのである。

ある年から、私はリュックの中に画帖、ノート、地図、それに着替えと若干の食糧を用意し、彼女たちの旅の荷とほぼ同じ重さにして、高田を後にした。彼女たちが歩いた同じ山村や険しい峠道を、私も歩き続けることによって、瞽女の生き方の根元的なものに少しでも触れることができはしないだろうか。いま思えば、長い年月であり、長い瞽女宿巡りの道程でもあった。

そして十数年、描き続けた五百余枚にものぼる絵日記が、いまここに二百余枚にしぼってまとめられようとしている。これは瞽女さんの生涯をまとめようとした記録であるが、瞽女さんの漂泊からするとささいな私自身の記録である。

こうしてできたこの本は、絵日記をそのまま本にしている、珍しい形のものである。瞽女さんの歩いた風景や瞽女宿、旅の様子などとともに、手書きの日記文が画家の想いをストレートに伝えている。巻末の地図をみると、瞽女さんの歩いた地域の広さと、山また山の道に圧倒される。瞽女さんは目が不自由な身で重い荷物を背負って、こんな険しい道を巡回していたのだ。

西頸城の旅から抜粋してみると、

いづれも俗界から離れた陸の孤島である。だから残雪の山膚が一直線に谷に落ちこんだ狭い山の斜面に能谷の千枚田のような小さな田を作り、猫のひたいのようなこの台地に農家が点在している。そこにはいにしえさながらの面影をとどめた日本の村がここに残っていたという感が強い。

飛山の農家はどの家もすばらしい日本の家であった。草葺きの屋根、大黒柱、家の間数、その規模の壮大さは驚きにあまるものがあった。それは長い冬の雪の重圧に耐えたこの地方の、いや、西頸城全体の生活から生まれた知恵の結晶でもあろう。雪解けの飛山の田んぼの畦道にはつくしが群がっていた。今ごろ梅の花が盛りである。中川さんから聞き出した生活の中で、30年前の瞽女さんの生活には興味があった。その頃越後瞽女は、関西関東まで名を馳せ、盲人も目明きも瞽女商売に誇りをもっていた。

歌もうまければ美人ぞろいで、娯楽の乏しかった頃の瞽女さんは、村の若い衆の夢であり羨望であったとか。つくしや梅の香には時代の来歴はないが、村の人の心や生活様式にはもうこの飛山の奥深い僻村にも新しい文明がしのびより、どんな家にもテレビが備えられ、洗濯機が置かれて変わってきたのである。そして午後の1時、家の人はホームドラマに興じていたのである。中川さんもテレビの歌謡曲を聞きながら、むしろ瞽女を訪ねてきた私のほうに興味を感じていたのかもしれない。

その頃の瞽女さんは身だしなみもしっかりして、とても綺麗に飾っていました。赤や黄の着物の色が目に見えるようです。「あそこの家にはどんな瞽女さんが泊まるとか、こちらではどんな瞽女さんが泊まる」とかで、村の若い衆は目を光らせていたものです。「あそこの瞽女さんはいいぞ」なんて言って、「瞽女さん今夜行くぞね」と若い衆は街道で話しかけ、からかっていたのを今でも覚えていますね。夜になると瞽女さんはちゃんとお風呂から出て、着物を着替えて銀杏返(いちょうがえ)しの髪を直してお化粧してね。

娯楽の何もない時代、ひとときの娯楽を提供する瞽女は、山深い村の生活の一部となっていたのだ。

雨の激しい日に、門の前で何時間も瞽女さんが歌っているので、どうしたのかと訊ねてみると、お金をたくさんもらったのでお礼に歌っていたとか、瞽女宿に着いたところ、親戚が19人も来ていたので遠慮しようとしたところ、ぜひ泊まって歌を歌ってくれと頼まれ、他の人々は雑魚寝で瞽女さんは座敷に寝かせてもらった話。戦争中、食べ物の少ない時代に、瞽女さんのためにと米をとっておいた話、他の瞽女さんと宿が一緒になった時、その宿の主人が歌のうまい高田の瞽女さんをその夜は歌わせないで、他の瞽女さんが帰ってから次の日に歌ってくれと言った話など、村人と瞽女とのこころこまやかなエピソードが語られている。しかし、なかには孤独やむなしさ、さびしさから旅の宿で酒を飲んで過ごしたり、身をまかせるようなことがなかったわけではない。

瞽女の組織はこのようなことに厳しい規律があった。「若い娘できれいな娘は困りました。みんなにいつも心配かけて。とうとうある日、男と一緒に信州の方に行ってしまったんですよ」。瞽女の社会は女ばかりの組織である。親方には娘たちに傷をつけないで立派に育てなくてはならない心配というものがあったのだ。

深い人情の中にあったとはいえ、その旅はかなり厳しかったようだ。まだ甘えたいさかりの7歳くらいから旅に出るのである。荷物の重さだけでも15キロにもなる。盲目のため瞽女になった人、目は見えるが家庭の事情で瞽女になった人などさまざまな人がいた。

巻末に86人の「高田瞽女一覧」がある。盲目の人38人、少し見える人と片方失明の人14人、目の見える人34人であり、離れ瞽女を含めた正確な瞽女の人数は196人だという。

この本の出版は昭和53年である。画家が旅したのはそれより10年以上前からであるから、はるか以前のことになってしまった。村人とのこころの通い合い、人情が瞽女を成り立たせていた。それは大地に足をつけて生きる人々の間でこそ可能なことだったのだろう。しかし時代の流れとともに瞽女さんの饅頭笠やビニールでは代替えできない桐油の合羽など、瞽女を支えてきたさまざまなものがあるいは消え、あるいは変化していった。瞽女宿も昔の面影がなくなっていった。

一方、男に身をまかせたという一夜のあやまちのために、群れを追われていった、はなれ瞽女については、水上勉の『はなれ瞽女おりん』がある。これは彼の名作ではあるけれど、この本に描かれているような瞽女さんたちの本当の生き方と村人とのこころの通い合いというものがあったということをこころに留めて、もういちど『はなれ瞽女おりん』を読めば、もっと深い背景まで読めてくるであろう。

それにしても、画家の著書とはいっても、エッセイ賞を得ているという作家・画家の書だけに、もっと多くの人の読まれるべきであろう。

(はぎはらまさえ フリーライター)

【参考文献】

斎藤真一著『絵日記 瞽女を訪ねて』日本放送出版協会、昭和53年