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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2004年7月号

文学にみる障害者像

田辺聖子著 『ジョゼと虎と魚たち』

中村尚子

幅広いファンをもつ田辺作品の中でも人気の高い短編のジャンルの中の一冊。都会に暮らす男と女の心の行き交いを、どちらかというと女性の側から、少しほろ苦く描いた九編が収められた短編集である。その中から、障害のある女性〈ジョゼ〉を描いた作品『ジョゼと虎と魚たち』がタイトルとなっている。

『ジョゼと虎と魚たち』の単行本の初版は1985年(昭和60年)、文庫本は1987年(昭和62年)である。初版からは年月が経ち、また田辺作品といえども埋もれてしまうほど毎月新しい装いでたくさんの文庫本が発刊されているが、昨年、これが映画化され評判を呼んだことが、原作としての『ジョゼ…』に再び光をあてるきっかけとなったようで、本書は上映中からしばらく後まで、書店で平積みされていた。

物語は、ジョゼと恒夫の「新婚旅行」の場面から始まる。

車の中で「わっ。橋だあ」「わっ。海だ」と叫ぶジョゼ。ここで田辺ワールドの心地よい関西弁の会話が展開する前に、のっけからジョゼの障害が明かされる。

「子供のころから『脳性麻痺』と診断されていたが、『全く違う。特有の症状が見られない』という医師もいて、結局のところ不明のまま『脳性麻痺』で片付けられて、もう25歳になる。」

「ああ、はじめてやなァ…」と満足げにつぶやくジョゼに、「僕かてここは、はじめてや」と恒夫が返すと、「あんたのはじめてと、アタイのはじめてとは質がちがう。アタイのはじめては中身濃いのんや。アタイが海見たん、これが二度目やもん」

なぜ名前がジョゼなのか、なぜ25歳にして海が二度目なのか、ジョゼの障害とどうかかわるのか、そもそもジョゼと恒夫はどんな関係なのか(一般にいう「幸せな結婚生活」を送っている二人ではないだろうという想像も含めて)、読者はタイトルの「虎と魚」という取り合わせに続いて、冒頭、少しの間、頭に浮かんだそんな疑問を抱きながら読み進んでいくことになる。

ジョゼの生い立ちと恒夫との出会いを説明的に述べると、こんなふうになる。本名を山村クミ子という。母親は娘の障害ゆえか、赤ん坊のときに家を出て行き、その後父親が連れ子のある女性と再婚。新しい母親は、「車椅子が要って生理がはじまっているという『ややこしい』ジョゼ」を煩わしく思い、施設に入れた。17歳のとき、父方の祖母の家に引き取られ、二人で暮らすこととなる。しかし祖母はジョゼを人に見せるのをいやがる。夜、「裏木戸を開けて外へそっと出る」ことがジョゼにとっての唯一の外出であった。

ある日の外出の折、祖母が買い物でちょっと目を離したすきに、通りすがりの男がジョゼの車椅子を力を込めて押した。車椅子は勾配のある坂を加速していく。「がらがらと転げてくる車椅子に気付き、とびついてくれた」男が恒夫であった。

恒夫はというと、近くの学生アパートに住む大学生。その奇妙な出会いから、「ちょいちょい、体の空いているときはやって来て、車椅子を押してくれるようになった」が、福祉などとまったく関係のない「貧しい学生」であり、ときどきふるまわれる祖母の手づくりの食事にもひかれて、ジョゼの家に足繁く通うようになった。

ジョゼのけっして軽くはない障害と、これまたとらえようによっては重い過去と現在。この女の暮らしに、どこにでもいそうな現代風の若者=男が入り込み、心を通わせていく。

作者はジョゼを思いっきりわがままに描いている。たとえば、ジョゼが入ることを黙認してくれる遠い銭湯のしまい湯に二人で行き、終わって出てくるやいなや、「寒いのに待たせて。また冷えたやないの」とジョゼは恒夫をしかりつける。恒夫は「何でこない、ボロクソに言われんならんねン」とこぼしながら車椅子を押す。また、怒りだすと「うるさい。死ね! 阿呆!」と罵声が飛び、呼吸困難になるほどに興奮する。

その一方で恒夫については、ジョゼの「いばり」を「甘えの裏返しなのじゃないか」と「カン」で思っている、気負いのないやさしさをもった若者として対置させる。ジョゼの家のトイレの改造を市役所とかけあったり、ジョゼが暮らしやすいように手すりをつけたり、室内移動の道具をつくったり、ときにはジョゼのきびしい注文にあきれながら、それこそバリアフリー化に腐心する。しかし、普通の大学生活を楽しみ、就職活動にあせり、しばらくはジョゼの家から足が遠のく。二人の関係は、障害者とボランティアということでもない、しばりのない関係で進行しているかに見えたが、ジョゼの心の中にはさまざまな思いが芽生えていたことは、そのわがままぶりに見え隠れしている。

就職が決まって久しぶりにたずねた「家」には、ジョゼも祖母もおらず、知らされたのは祖母の死と引っ越し先でひっそりと暮らすジョゼのことだった。

駆けつけた恒夫とジョゼの再会。「来ていらん!」「…ほな、…さいなら」、「何で帰るのんや!」「どないせえ、ちゅうねん」…。二人の問答は、強がりと優しさの両極で素直に自分が表現できない二人の姿を目の前に見るようだ。かくして二人は結ばれる。

読み終わると〈ジョゼ〉と〈虎〉と〈魚たち〉のそれぞれが、ジョゼという女性が恒夫に心を開いていくカギとして描かれていたことがわかる。

〈ジョゼ〉という名は、クミ子がフランソワーズ・サガンの小説から頂戴したものである。小説の主人公に「たちまち心を奪われ」名乗るようになった。しかしそれは、〈ジョゼ〉と名乗ったほうが「何かいいことが起こりそうに思われ」、実際に恒夫という男が自分の前に現れた、すなわち「いいことが起こったから」、そう名乗ることにした、という。

では「虎」はというと、ある日、ジョゼの希望で動物園に「虎」を見に行く。檻の向こうで行ったり来たりする虎を失神寸前になるほどの恐怖で見つめながら、ジョゼはこう言う。

「一ばん怖いものを見たかったんや。好きな男の人が出来たときに。怖うてもすがれるから。…そんな人ができたら虎見たい、と思てた。もし出来へんかったら一生、ほんものの虎は見られへん、それでもしょうがない、思うてたんや」

そして「魚」は、冒頭の「海」にある海中水族館で、「海底に取り残されたよう」な幻想的な風景とそこで泳ぐ魚たちと2人を描いた最後のシーンにつながる。夜更け、ジョゼはふと目を覚ます。

「ジョゼも恒夫も、魚になっていた。

――死んだんやな、とジョゼは思った。

(アタイたちは死んだんや)

……

ジョゼは(我々は幸福だ)といっているつもりだった」

作者は、短い作品であっても、小説という虚構の中に、ちょっとした現実を織り込むことを忘れない。たとえば、小説好きのジョゼが本を入手するのは、「市役所からやってくる巡回婦人文庫」であり、そこに「障害者は会費無料で貸してもらえる」というカッコ付き説明が加わる。また、ジョゼは「就学免除で学校へはいったことがない」。さらに祖母と二人のときも一人になってからも「生活保護」で暮らしており、月に1回、ボランティアの女の人が来て、買い物もしてくれる、というように。

こうした描写によって、読者はかえって、この話を、どこにでもあるかもしれない男と女の話として受けとることができるだろう。作者の意図は、そこにある。「障害者が主人公の作品」として肩を張ることもなく、他の八編と違和感を感じることもなく読みふけることのできる作品である。

最後に、映画版の『ジョゼ…』(犬童一心監督作品、2003年)について、ひと言ふれておきたい。映画は脚本の渡辺あやによって、恒夫の心をさらに描き出した作品となっている。原作の85年からさらに20年近い時間を経たからこそ加えられたのであろう電動車椅子で颯爽と風を切るジョゼの姿がとても印象に残った映画であった。観てからでも、読んでからでも、どちらも違った味のするおもしろい作品である。

(なかむらたかこ 立正大学社会福祉学部専任講師)