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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2005年5月号

動物と暮らすということ

人は動物に何を求めるのか

山崎恵子

近年、動物と人間との関わりが注目されていますが、それは一体なぜでしょうか。特にペットに関しては、「コンパニオン・アニマル」「伴侶動物」と呼ばれるようになり、ますます人間との接点が強調されつつあります。確かにペットを飼うことによって、子どものコミュニケーション能力が向上したり、老人がより積極的に会話をするようになったりといった効果が報告されています。医療の現場では動物を相手の遊びなどでリハビリが進んだり、教育の現場では多動症の子どもが動物に集中することで落ち着くことができたりと、あらゆる分野で人間に対する動物たちの影響力が活用されているのも事実です。

しかし、人間が動物に何を求めるのか、また彼らからどのような恩恵を受けることができるのかを理解するためには、まず、人と動物全般の基本的な関係を念頭に置くことが必要です。これは今まで「原始の血の説」という言葉で説明されてきたものですが、これこそが最も重要な事柄でしょう。

人間は、地球上で有史以前から多くの動植物と生活を共にしてきました。「一緒に暮らす」というよりは時間と空間を共有してきた、と言ったほうがよいでしょう。その中で動物たちは、人間にとって環境のバロメーターでもあったのです。原始時代から人は、動物が安心してくつろいでいる姿を目にすると、その場所には自分をも襲うかもしれぬ肉食獣はいないだろう、天候も安定しているし、その他の危険因子もなさそうだと考え、自らも落ち着くことができたのです。しかし逆に、動物が不安そうな行動をとれば、自分にとっても何か心配しなければいけないことがあるのではないかと感じたのです。

つまり、原始の時代から、人は動物の幸福な姿を見ればリラックスすることができ、動物が不幸な状況に置かれている姿を見ると不安やストレスを感じていたのです。今日においてもこの根本は変わることなく、私たちの中には動物の姿に対するこのような反応が残っています。補助犬であろうと、ペットであろうと、セラピー犬であろうと、その動物が自らの置かれた状況に不安、不満、恐怖などのマイナス感情を抱いていれば、それは共にいる人間の精神状態を逆撫ですることに繋がっていきます。動物の存在は人間にとって精神的安定をもたらすこともできますが、その全く反対の効果もあり得ることをまず理解することが大切です。

さらにこの原始の血の説に加え、バイオフィリアという概念があります。これはE.O.Wilsonが広めた概念(1984)ですが、自然の動植物に囲まれた環境で進化のすべてを遂げた人類は、それらに対して選択的に集中し、かつそれらとの関わりを軸に思考を巡らせる脳を有するようになったという考え方です。そしてそれ故に人間には、他の生物の存在を求める基本的な欲求があるのです。つまり人間が進化の結果として有するようになった頭脳を最大限に機能させるためには、他の生物がいる環境が必要不可欠であり、かつそこで他の生物が最良の状態に置かれていれば、人はそこから精神面での安定をも得ることができるのです。人がなぜ動物を求めるのか、そしてその動物たちが人に何をもたらすのか、答えはまさにここにあります。

これを実生活の中の動物たちとの関係に具体的に繋げてみると、今まで見えなかった物がよく見えるようになります。補助犬の場合などは、たとえば物を拾い上げるという単純な作業を一つ提供するだけでも、第三者への依存度を下げ、障害者の生活に質的変化をもたらすことができるのですが、犬のQOLが保障されなければ、犬はこのような恩恵をもたらすと同時に、環境のバロメーターとしては障害者に悪い影響を与えてしまうでしょう。

アニマル・セラピーではどうでしょうか。活動している動物たちがストレスを感じていれば、患者自身のストレスの原因をもたらすことになります。つまり、動物の福祉はしばしば感情論として捉えられがちですが、実は「動物のための福祉」は「人間のための福祉」でもあるのです。

この考え方をベースにしていくと、さらに重要な点が見えてきます。一つは、動物に何かをやらせる時の、人間の介入に関する問題です。ペットのしつけ、介助犬の訓練、何であろうと動物の行動に人間が介入をする訳です。その介入の仕方が動物に不安や恐怖を抱かせてしまうようであれば、それは前述の基本から言えば、周囲の人間にも悪影響を与えることになります。それ故に、その介入手段は動物が自然に受け入れやすい、ストレスが最もかからない方法、動物の学習理論に合致したものでなければならないのです。

自然界で動物が最も積極的に新しい行動を身に付けていくのは、食物獲得のような強い動機付けが存在する時です。危険回避の場合にはその場その場で反射的な動きは出るものの、それ以上の創意工夫には繋がりにくいのです。人間も、頭上から石が落ちてくればその時はとっさに飛びのき、かつその場所では以後気を付けるようになるかもしれませんが、何かほしい物を手に入れようとする時には頭を使いいろいろな方法を考えるでしょう。後者の場合には学習能力に極めて良好な刺激が与えられます。ご褒美を与え訓練をすることは、それが最も自然で効果的な方法であり、なおかつそれによって動物が周囲の人間を支える良好な環境のバロメーターになるからなのです。

次に考えなければならない点は、動物の、置かれた環境に対する適性です。生活環境が自分に合っていなければ、人間でもイライラがつのります。動物も同じです。ペットの場合には飼い主が環境に工夫することもできますが、補助犬、セラピー犬等には必ず受け入れなければならない環境因子があります。そこで彼らに良好なバロメーターであり続けてもらうためには、それらの因子に対して悪い反応をしない固体をあらかじめ選ぶ必要があります。老人ホーム等に訪問をする犬は、不特定多数の人間に囲まれて撫でられること、耳慣れぬ騒音や見慣れぬ機具等、多くの事柄に直面しても不安を覚えることなく楽しく活動できなければなりません。補助犬などは、より多くの事柄を「平気」で受け入れなければなりません。

人間同様、犬にも持って生まれた性格があり、社交好き、人嫌い、寛容、キレやすい等、さまざまです。そして人間同様、性格的に合わない生活環境は犬をも不幸にしてしまいます。良好なバロメーターを求めるのであれば、固体の選択は決して無視することのできない重要な課題です。また補助犬を「生きた自助具」として捉えた場合、生物として他の道具と異なる大きな点の一つが、この適性そのものの変化でしょう。人間同様、動物も変わるのです。

加齢や大きな出来事、病気等が原因で、犬も今までとは異なった反応を示すようになることがあります。今までの寛容さが、何かの「事件」をきっかけになくなってしまうこともあります。それは生物である以上仕方がないことであり、人間はそれに合わせて物事を決めていかなければなりません。もちろんこれは決してマイナスに捉えるべきことばかりではないのです。道具とは異なり、周囲の環境に自らを柔軟に適応させていったり、必要な事柄を自己学習したりできるのも犬だからなのです。この辺りを、犬と暮らす人間がもう少し理解しておく必要があります。また、いくら適性があっても、犬にも人間同様「気分」があります。何となく「どんよりした日」が私たちにもあるように、犬たちにも彼らなりの気分の変化はあり、それに過剰反応せずに対応することが、共に生活をする人間の役目でしょう。これも、犬に関してあまり理解されていない側面の一つです。

最近はセラピー犬、補助犬、学校飼育動物等、人間の心や生活の質をより豊かにする動物たちが注目されていますが、残念なことに「ハウツー談」ばかりが目に付き、根本的な議論が全くなされていないようです。人が動物から何を感じ取るのかを理解することができれば、そこから動物の扱い方や接し方は自然と見えてくるのです。

私たちが彼らに何を求めるのかを考えるのであれば、逆に彼らが私たちに何を求めるのかを考えなければなりません。私たちが良好なバロメーターを求めていけば、当然彼らがそうなれるための条件が整わなくてはならないからです。その条件がわが国においては「動物の愛護と管理に関する法律」という形で文書化されています。むろんそれがすべてではありませんが、この法律の存在を知らずして動物の恩恵を求めることはできません。特に補助犬の場合、使用者は他の自助具や補装具の使用者と異なり、この法律上の義務も担うことになります。

人が自分の生活をより豊かなものにするために、動物たちに安らぎを求め、共に暮らす中で何かを得ようとするのであれば、まず彼らが心安らかに暮らせるようにしてやらなければならないのです。

(やまざきけいこ 医療法人雄心会山崎病院、動物介在療法コーディネーター)