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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2006年3月号

ワールド・ナウ

障害をもった作家が社会を凝視し返すこと:米国における障害文化

ケニー・フリース(Kenny Fries)*1
訳:長田こずえ

歴史を通して我々障害者は、人々の凝視の対象であった。我々は、社会の至るところでじろじろと見られ続けてきた。障害者は健常者のニーズと凝視によって、その存在を定義づけられてきた。幾度となく、障害者は施設に隔離され、医学的研究の実験台にされ、時には抹殺されることすらあった。障害者の言うことなど聞きたくない健常者たちにより、障害者は口を封じられ続けてきた。我々はまた、自分たちの恐怖により口をつぐみ続けた。

アン・フィンガーが「過去の支払:障害、妊娠、誕生」という題名の本の中で彼女自身の障害経験を語っている。アンがフェミニストの会議に参加した時、「自分が子どもの時、小児マヒの後遺症のせいで、ある病院で大変思いやりのない非人間的な扱いを受けた」ことを同僚たちに話した。そのとき同僚のフェミニストの一人がこう言った。「まあ、なんてひどいことを。もしあなたが私の子どもなら、そんなことが起こる前に私はあなたを殺していたでしょうね。そして、私も自殺したでしょう」。アンはこう反応した。

「この一瞬、私の心臓が止まりました。彼女は私に死ねといっているのです。私の恐怖が本当になったのです。もし、我々障害者が自分の痛みを他の人に話すと、ほら、言ったでしょ、そんなことになる必要はないのよ。あなたたちは死んだほうがずっと幸せだったのよ。死になさい」

西欧文化は社会の中核から外れた人々に対して常に固定観念を持ち続けてきた。これは米国においては、いわゆる少数民族、アフリカ系アメリカ人やアジア系アメリカ人などに貼り付けられた固定観念などである。作家で評論家でもあるレオナルド・クリーゲルは、「障害者のイメージや固定観念は神話や文学においては常に大切なものであった」と書いている。肉体的障害をモラル的非難と結びつけてきたのである。クリーゲルはこのことを、「悪魔的なかたわもの」と表現している。「悪魔的なかたわもの」のキャラクターの代表としては、シェークスピアに登場するリチャード3世(せむし男)、メルビールのアハブ*2、フランケンシュタインの化け物男、ピーターパンに登場するキャプテン・クック、ジェームスボンドに登場する悪役たちなどが挙げられる。彼らは肉体的にマヒしているだけではなく、精神的にも障害の影響を受けている人として描かれている。今日においても、劇作家の間では、舞台に出演する悪役に義手義足などを与えることはよくある。これらの悪魔的な障害者たちは次に登場する、精神的には全く正反対のキャラクターたち、つまり「慈悲の対象となる障害者たち」と比較される。

これらの慈悲の対象として登場する障害者たちは、たとえば日本でもよく知られている、英国の作家、ディケンズのクリスマスキャロルに登場する小児マヒの子どもの「小さなティム」や、作家メルビールの本に登場する「黒いギノー」などである。これらのキャラクターは人々を魅了する。つまり、彼らは、人々の罪悪感をほっとさせるのである。これらのキャラクターたちは、テレビの慈善事業の寄付集めの番組によく見られるように、かわいそうな人という気持ちを人々に起こさせる。クリーゲルが指摘しているように、悪魔的な障害者や慈悲の対象としての障害者の概念は、障害者自身の経験を全く無視して障害を定義している。一方では、悪魔的な障害者の否定的な文化は障害に対する恐怖とタブーの表れであり、他方では、慈悲の対象としての障害者は人々の感傷的(センチメンタル)な気持ちを反映しているに過ぎない。どちらも障害者の本当の人生とは無関係である。

南北戦争後、米国は近代化と産業化の道をたどる。このプロセスにおいて、経済的な生産過程は家内工業から大規模工場での大量生産が中心のものへと変化した。障害者の絶対数も増えたが、この生産過程は健常者を中心とした画一的な経済活動を基本として、障害者は工場の流れ作業などの画一的な生産過程から排除される。その後、いわゆるリアリズムの作家たちが登場してくるが、たとえばウィリアム・デーン・ホーエルのようなリアリストでさえも障害者の現実の人生を描くことはしなかった。したがって、1930年から40年代になって初めて米国の作家たちの態度が変化し始める。しかし、この時代においてすら、障害者の本当の人生や生活は語られていない。

たとえば、ナタニエル・ウェスト、ダートン・ツルンボ、カーソン・マックセラーズなど新しい作家たちの作品の中では、障害者は社会の落ちこぼれ、つまりアウトサイダーとしての視点が徐々に反映され始める。これは、常に内なる人、つまりインサイダーの視点から社会が描かれることに疑問を持った当時の作家たちの考えを反映したに過ぎない。つまり、この段階においてすら障害をもって生きることの本質や経験は描写されないままで、障害とは社会からはじき出されたもの、アウトカースト、いわゆる封じ込められた人たち、誤解された人たちなど、社会の犠牲者たちのたとえとなってしまうのである。ここにも障害の経験は見られない。

米国においては、私自身が障害経験に関する本を書き始めた1989年にいろいろなことが起こった。米国では以前から1968年に施行されたバリアフリーに関する法律や、公法94―162(米国リハビリテーション法)のセクション504などの障害に関する法律があったが、これらを昇華させ、結晶させたものとして1990年にADA(障害を持つアメリカ人法)が議会を通過した。当時、ADAは1964年の公民権以来、最も進んだ公民権であるといわれた。ADAの成立後、歴史家であるポール・ラングモアは次のように言っている。「障害者が社会への完全参加を実現するためには、公民権、平等なアクセス、機会均等を要求し続けなければならないが、少なくとも、我々はいま第二段階に到着した」

この第二段階とは、障害者としての総体の文化を模索する段階である。つまり、新たな障害文化を創造することである。この障害文化とは障害当事者たちの個人的な本当の経験を中心に創造する文化である。アン・フィンガー、スーザン・ナスバウム、ジョン・ベルーソの作品、コンスタンス・メリットの詩などは障害当事者の個人的な経験を基にしたもので、個人的経験を作品の前面に押し出している。これらの障害文化の作品は、社会を凝視し返す(つまり、今までじろじろと見られていた障害者が健常者の社会を凝視し返す)ものである。これらは、障害者自身の視点から社会を見ること、障害を内側から観察すること、そして、今までとは全く裏返しの文化を創造することである。

これらの作品の多くは、障害を単なる機能障害としてとらえ、機能障害に対する対応と適応に基づき定義する、いわゆる「障害の医学モデル」から脱却して、もっと新しい障害のモデルを提唱している。このもっと新しい障害のモデルとは、障害者たちの社会への完全参加を阻んでいる物理的なバリアと健常者の障害者に対する否定的な態度(社会的なバリア)を作り上げてきた社会構造そのものに注目し挑戦するものである。

歴史家のラング・モーアは次のように言っている。ただ単に自分たちの自尊心を宣言するだけではなく、ろう者*3と障害者は彼ら自身が生み出したもうひとつの文化を創造してきた。

このもうひとつの文化は、「自己の充足ではなく自己決定を」「自立ではなく相互依存を」「機能的分離ではなく人間の間のつながりを」「物理的な自治ではなく人間のコミュニティーの構築を」宣言するものである。ADAが成立したにもかかわらず、また、以前よりも多くの作家たちが障害文化を提唱しているにもかかわらず、古い文化はそう簡単には死なない。ADAの実行に関しても、連邦政府の判決や最高裁判所の判決は障害に関する定義の問題があいまいなこともあって必ずしもうまくいっていない場合もある。このような現状を鑑みたとき、今一番大切なことは集団としての障害文化をさらに高揚させることである。障害者と健常者の両方に語りかける障害文化とは、人間の人生や生き方の多様性と豊富さを認識してそのど真ん中に、障害をもって生きる我々を少しでも近づける文化であると思う。

(ケニー・フリース ゴッダード大学大学院クリエイティブ・ライティング教授)

*1 ケニー・フリース氏は「自伝:肉体の記憶(Body,Remember:A Memoir)」(2003)ウィスコンシン大学出版の筆者であり、「凝視し返す:ひっくり返した視点からの障害の経験(Staring back:The Disability Experience from the lnside Out)」という本の編集者でもあり、その他多くの、障害当事者の視点からみた障害に関する本の筆者でもある。また、詩人でもあり、米国における障害文化の第一人者である。フリース氏は現在フルブライトの研究者として法政大学に席を置いて、「玄関:日本の入り口(Genkan:Entries into Japan)」という題名の研究を行っている。これは、歴史的、文化的な日本人外の人(障害者など)や差異に対する態度に関する研究である。フリース氏は米国のゴッダード大学とフォードハム大学で大学院生を対象にクリエイティブ・ライティングを教えている。翻訳者の長田こずえとは後者の日本での4か月間の国連サバテイカル休暇中に法政大学で研究仲間として知り合った。

*2 小説「白鯨」に登場する、鯨に足を食われて障害者になった男の話。

*3 米国では、ろう者は自らを手話文化を共有する文化集団として、必ずしも機能的な障害者とみなさない場合もある。