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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2006年5月号

1000字提言

「親亡き後」ということば

田辺和子

交通事故などの外傷や脳卒中・心筋梗塞などの病気の後遺症がもたらす高次脳機能障害という障害名は近年、福祉関係などの人には少しは知られるようになってきた。記憶すること、物事を順序よく行うこと、感情をコントロールすることなどができにくくなり、また知的能力が低下するなどで、これまでの生活が大きく変わる。仕事や学校を止めざるを得なくなったり、サポートがないと生活できなくなったりする人も多い。

10年余り前、大学生の息子が高次脳機能障害を負い、私は障害者の親になった。いろんな障害の関係者や専門家や家族に会ったとき、分からないことばや、不思議なことばがたくさんあった。中でも「親亡き後」ということばに一番、違和感を持った。会話の中にいきなり「親亡き」と文語体が出てくるのでびっくりした。専門家の独特の言い回しかと思ったら、だれもが使っていた。

障害をもっていなくても、どうしようもないグータラ息子やグータラ娘もいる。それこそ、親は後々まで心配だろう。でも、そんな話題の中で「親亡き後」という用語化したフレーズはあまり聞いたことがない。

そのうち、いろんな事情に出会い、障害をもって生まれたお子さんを養育してきた親御さんたちの立場などが分かってくると、そうだろうと理解もできるようになった。

しかし、それにしても、成人して独立した生活をしていた青年や壮年が障害をもつと一様に親の元に帰ってくる、というのは自然な成り行きなのだろうか。ことに親がすでに老後という域に達している場合、子(成人)の立場にしても、親の立場にしても、なんだかなー。

仲間たちと活動をしていると、同じような境遇の人からの相談電話がたくさんかかってくる。いよいよ自分たちの老後の生活を考えようとしているとき、独立して暮らしていた息子や娘が障害をもち、それでも何年かは頑張って介護してきたけれど、もうどうしようもないのだという悲鳴に似た電話に、こちらも一緒に途方にくれる思いになることもある。

そんなとき、「親亡き後」ということばを思い起こす。やっぱり変だ。このことばは罪だ。親亡き後という発想があるから、親がいる間は親の責任だと行政は手をこまねいているんじゃあないだろうか。

私は、次世代の人として生きている息子を少し離れて見ていたい。そして物言えぬ息子のために代弁者の役割はしっかり果たしたい。ギリギリまで手厚い世話をして「あとはよろしく」といきなり手放すことこそ無責任という気がしてならない。しかし、そのような場はなく、作るためにはハードルはあまりに高い。

(たなべかずこ サークルエコー)