音声ブラウザご使用の方向け: ナビメニューを飛ばして本文へ ナビメニューへ

「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2006年6月号

ワールド・ナウ

パキスタン地震支援報告

奥平真砂子

はじめに

本稿校正中の5月28日に、またしてもインドネシアで大地震が起き被害が報告されているが、ここでは本誌2月号でも紹介した昨年のパキスタン北部地震のその後について報告したい。

筆者は3月26日から4月1日にかけて、ダスキン・アジア太平洋障害者リーダー育成事業の第8期生の面接のためにパキスタンに行った。マイルストーンという障害当事者団体のプロジェクトマネジャーであるシャフィクたちの勧めもあり被災地であるバラコッドと、地震で障害者となった人たちが収容されている病院を訪れる機会を得た。

被災地、バラコッド

パキスタン北部地震は2005年10月8日午前8時50分発生、マグニチュード7.6、犠牲者8万6000人、被災者400万人、家屋を失った人315万人、過去100年間で同国が遭遇した最も強い地震であった。

その日の午後、震源地に近いバーグという街に住む仲間から電話を受けたマイルストーンのスタッフは、すぐに救援物資を集め被災地に向かい、まだ助けの入っていないバラコッドで救援活動を始めた。それ以来、彼らはバラコッドを中心にその周辺地域の被災した障害者支援を継続して行っている。

行き先が山岳地方であることに加え、道路がまだ完全に修復されていないので、私たちは四輪駆動車をレンタルし、何度も被災地に出向いているドライバーをお願いして、朝8時に宿泊先のホテルを出発した。途中、救援活動の帰りと見られる軍隊の車の一隊と出会ったり、道路の両脇が削られていて「ヒヤッ」とさせられたりと、地震のつめ跡を感じながらの道中であった。

バラコッドは、首都イスラマバードから車で北西へ3~4時間のところに位置し、地震の前は風光明媚な観光地として有名な街だった。人口の7割から8割の人が命を落としたと言われており、市街地に近づくにつれ、そのつめ跡は大きくなっていった。ほとんどの家は崩れ去り、人気の高かったリゾートホテルも瓦礫の山と化していた。山の斜面は大きく崩れ、崩れた土砂で川が埋まり、山だけでなく川までもが消えてしまっていた。パキスタンの家は石造りであるため、多くの人が崩れてきた石の下敷きになり圧死し、生き延びた人も脊髄損傷などの障害を負った人が多いと聞いた。

私たちがバラコッドを訪れたのは、被災から6か月が過ぎようとしている時だったが、市街地には粗末なつくりだがお店がいくつかできており、人々が少しずつ生活を取り戻そうとしているのが見て取れた。しかし、壊れた家のほとんどはそのまま取り残され、多くの人は瓦礫の上に配給されたテントを張って暮らしていた。仕事もないと見えて、大人の男性が何をするでもなく道端や瓦礫の上に無気力な表情で座っている姿を多く見かけた。

道中、車を止めて、ある家族から話を聞いた。彼らも壊れた家の瓦礫の上にそのままテントを張り、両親、男の子と女の子、そして叔母の5人が一つのテントで暮らしていた。水も電気もガスも復旧していないので、水は配給で確保し、外で焚き火をして料理を作るという不自由な生活を送っている。男の子は学校で被災し、友達の多くが死んでしまったという。すぐ近くの彼の通っていた学校は、ぺしゃんこになったまま取り残されていた。今も余震が続いていて、その朝も大きな余震があり裏山の大きな岩が崩れ落ちてきたとのことだった。

けがや障害を負った人の多くは病院に収容されたが、元から障害をもっていた人は取り残されているケースが多く、正確な数も把握できていないのが実情だという。実際に、私たちが話を聞いた男性が私の姿を見て、「君と同じような障害をもっている女性が、この山を30分くらい入ったところに住んでおり、地震以来家から出られない状態だ」と話してくれた。マイルストーンのスタッフも彼女のことは分かっているが、今の状況ではどうしようもないとのことで、なんとも切ない気持ちになった。

マイルストーンの被災者支援活動

バラコッドを訪れた次の日は、マイルストーンのリーダーたちが地震で脊髄損傷などの障害を負った人たちに対して行っている活動の様子を見るために、イスラマバードにある国立病院を訪れた。そこには、子どもから大人まで、男女それぞれ50人ほどが通路を隔てた別棟に入院し、治療やリハビリを受けていた。しかし、実態はじょくそうができても放置され、寝たきりの人が多い印象を受けた。シャフィクによると、パキスタンでは優秀な医者は海外に出てしまい、“障害”について十分な知識のない医者が手当てをしている状況で、シャフィクたち“障害当事者”が自分たちの経験や知識を元に、障害をもって経験の浅い被災者たちにいろいろ教えているという。

マイルストーンは、障害をもった被災者のエンパワメントを目的として、被災者が収容されているいくつかの病院を、1か月または2か月と期限を決めて回っている。私たちが訪問したのは、そこで活動を始めて3日目という病院で、屋外で行うピアカウンセリングと自立生活プログラムの様子を見せてもらった。場所を屋外に設定するのは、病室では家族や病院のスタッフがいて、当事者の正直な気持ちが話せないからとのことだった。中庭は、男女別の大きなグループを作るに十分な広さがあり、それぞれ輪になって話していた。ただ、残念なことに、女性のリーダーが不足しており、男性のリーダーが女性のグループで話すことも多いらしく、その日も1人の男性のリーダーが時間を変えて、男女2つのグループを率いていた。

内容は、自分の障害をもって生活している経験を話し、皆を元気付けるとともに、衛生管理の重要性やカテーテルの使い方、車いすの押し方を教えるなど、障害者リーダーとしての役割以上のことを担っている。その病院の副院長も、「彼らが関わるようになってからまだ数日だが、目に見えて皆が元気になっているのが分かるなど、効果が大きく現れている」と話してくれた。

グループの中に、10歳くらいの女の子と6歳くらいの男の子がいたので、「今、一番したいことは何?」と聞いてみたところ、2人から「学校へ行きたい」との同じ答えが返ってきた。女の子は、「家へ帰りたい」とも言っていた。私たちと話しはじめたときは、2人ともうつむき加減で寂しそうだったが、慣れてくるにつれて笑顔も見せてくれた。女の子が、マイルストーンのリーダーが車いすを上手に操るのを見て、まねしようと一生懸命に彼の後ろを付いていく姿がなんともほほえましく、子どもの順応性の高さを改めて知り、少し安心した。

最後に

私たちがバラコッドを訪れた日、パキスタン政府は、「震源地に近い地域は余震が続き、地盤が安定しない」として、「住民全員移住」の方針を打ち出した。「私が見たあの多くの人たちは、どこへいくのだろう?」、「瓦礫は取り除かれるのだろうか?」など、いろいろ心配になった。それらは政府や研究者が考えることで、私たちは私たちにできることを実行していかなければならない。マイルストーンのリーダーは自分たちの役割を自覚し、短期、中期、長期とその時々の必要性を考えて行動している。地震直後の物資配給から、現在は障害者となった人たちのエンパワメントに力を入れており、次は、彼らが地元に帰ったときの支援の計画を世界銀行パキスタン事務所や他のNGOと協力しつつ進めている。

彼らの活動は順調に見えるが、まだまだ問題もある。脊損や頚損のリーダー、特に女性のリーダーの不足や被災地に取り残されている障害者の支援である。これからは彼らの生活を取り戻し成り立たせていくための、長期的な支援を考えていかなければならないだろう。そのために、私たちができる支援も続けていかなければならない。そして拙文がその一助になることを願う。

(おくひらまさこ 日本障害者リハビリテーション協会研修課)