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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2006年9月号

文学にみる障害者像

江戸川乱歩著『一寸法師』『芋虫』『盲獣』
―残酷趣味で描かれた障害者―

関義男

江戸川乱歩の作品を「障害者」という視点で筆を執ることは、筆者にとってすこぶる気が重い。作品発表当時の一般大衆の障害者認識がどのようなものであったかを知る資料として有用であるとしても、障害者への歪んだイメージを増幅させ(著者自身にそのような意図はなかったにせよ)広くマイナス影響を与えたであろう作品群に対する評価は、始めから結論が出ているようなものだからだ。

江戸川乱歩は、昭和年代を生きてきた人々にとって、好き嫌いに関係なく、よく知られている名だ。「乱歩」の筆名は、アメリカの幻想的作風の古典的作家であり詩人でもあったエドカー・アラン・ポオを模じったものであることもよく知られている。

乱歩は海外のミステリーを幅広く日本に紹介したミステリー界の大御所的存在でもあるが、自身の創作活動の肩書は「探偵小説家」で、今はやりの「推理小説家」や「ミステリー作家」の名は乱歩にそぐわない。

子どもの頃『少年探偵団』『怪人二十面相』等を読んだことがある人も、文学への価値判断力が培われてくると、作品のあまりの荒唐無稽さ、非現実性と矛盾の多さに辟易(へきえき)して以後手に取ることさえしない。また作品に描かれているところの、エロティックにしてグロテスク(エロ・グロ)、猟奇的残虐さ、変質狂的嗜好等が低級な通俗小説として、良識あると自認している人々から嫌われてもいる。

しかしその一方でなぜか、大正・昭和年代の探偵小説家がほとんど忘れ去られている中で、多くの乱歩の愛好家によって作品が連綿と読まれつづけている。作品集を出している出版は数社にのぼる。未完成作品や雑編まで収めた全集まで出ている。こうまで人々を引きつける魅力はどこにあるのだろう。乱歩作品の魅力の一つに、セピア色のレトロ趣味を満たし、過ぎ去った時代への郷愁のようなものを嗅ぎとることができるからなのか。残虐美のようなものに魅き寄せられるからなのか。

本を開いて目次を見れば、おどろおどろした刺激的で奇異な題名が並んでいる。そこにどのような奇想天外な物語が描かれているか好奇心をかきたてずにおかない魔力のようなものが確かにある。

多くの奇妙な題名の中に『二廃人』『盲獣』『一寸法師』『芋虫』『妖虫』等の障害者を彷彿(ほうふつ)させる題名も散見される。これらの作品が発表された乱歩の時代、「障害者」の呼称はなかった。「不具」「片輪」「畸形」「廃人」「白痴」「馬鹿」「狂ちがい」等が心身にハンディをもつ人々に対する日常的呼称で、人がこれらの言葉を発する時、表向きの憐憫(れんびん)や同情を装いつつ暗に蔑(さげす)みの気持ちを含んでいたことを否定することができない。

乱歩の世界は、障害者が見世物小屋で親の因果が子に報い…の呼び込み声高らかに、人々の好奇の目にさらされていた時代に重なる。見世物小屋に雇われた障害者が金銭を得て自活できる道の一つであったとしても、人と同列の仲間になることは至難で、人権無視の苦痛と忍耐の時代であったことに変わりない。

乱歩の初期の作品『踊る一寸法師』は、このような時代を背景にした物語である。道化師役の一寸法師が一座の軽業師や手品師たちに虐(い)じめられ、玩弄物のごとく扱われた結果が引き起こす残酷な復讐劇だ。乱歩好みの幻想怪奇風な結末にもの哀しさが漂う。

乱歩は前記の作品を発表した同じ年(大正15年)、乱歩初の新聞小説、題名もそのものずばり『一寸法師』を朝日新聞に連載している。ここでの一寸法師は秀でた頭脳で巧妙なトリックを弄する殺人鬼で、この作品が好評を得て映画化されること3度(戦後は2度)に及んだ。筆者は過去に『一寸法師』の映画を観たことがあるが、不気味なホラー映画のようなものだったと記憶している。

一寸法師は乱歩が好んで作品に取り込んだキャラクターで、私が知る範囲の作品だけでも『孤島の鬼』『地獄風景』『悪霊』『妖虫』『大暗室』『灰色の巨人』等の多数にのぼっている。

一寸法師の容姿についてはどの作品も判で押したように怪異な雰囲気を匂わす差別的描写をしている。そもそも人間に「一寸法師」と名付けることじたい著しい差別で、悪意すら感じさせる蔑称である。

少年向けの作品では、怪人二十面相と戦う少年探偵団の一員で「ポケット小僧」と呼ばれる身体が幼児並みの敏捷な少年が活躍するが、これなどは一寸法師からヒントを得たアイデアであろう。

『芋虫』『盲獣』の二作品は、稿を改めて紹介するのが順当と思われるほど問題性を孕(はら)んだ作品であるが、ここでは紙面の関係上、簡単に触れておきたい。

『芋虫』は戦争で重傷を負い、奇跡的に生還したものの、四肢を失い聴覚も声帯も失って肉塊のようになってしまった元軍人の悲劇で、夫人の献身的な看護で体躯だけが奇跡的に健康を取り戻した夫に対し、夫人は秘そやかな凌辱的行為を娯(たの)しむというグロテスクな内容である。この作品は反響を呼んで、左翼系から反軍国主義的作品と評され好意的に迎えられたが、当の乱歩は、自分の作品は通俗的で面白ければよいのであって、イデオロギーのための作品ではないと言い切る。

『盲獣』は、巧妙に仕掛けた罠を用いて次々に美女を殺害していく殺人鬼で、天才的能力をもった彫刻芸術家でもある盲人の、残酷で異常な犯罪を描いた物語である。殺人は彼が理想とする至高の芸術を完成させるためのもので、盲人のための「触覚芸術論」なるものを展開させるところに、この作品のユニークさがある。

主人公の盲人が主張する「触覚芸術論」とは、この世に目で見る芸術や耳で聴く芸術があるように、手で触れる芸術があって然(しか)るべきだ。鋭敏な触覚をもつ盲人にしか創造しえない、また、盲人でなければ真に鑑賞し得ない触覚美の新しい世界を啓(ひら)く芸術があってもよいではないか…という趣旨である。

現代に通用するかにみえる芸術論も、盲人彫刻家の行動が正当化されるはずもなく、乱歩好みの残虐奇抜な着想によってねじ曲げられてしまう。

乱歩は幼少の頃から鏡やレンズ、万華鏡や双眼鏡といったものに興味を持ち、映し出されたり、それらのものから眺められる別世界を見るような不思議さに惹かれた。同様に、見世物小屋で初めて見た障害者についても、別世界の人間でも見るような好奇心と不思議さを抱いたのだろうか。たとえば『悪霊』という作品には「人間の普通でない姿態に惹きつけられる例の僕の子供らしい好奇心に過ぎなかったが」という記述があるが、「普通でない姿態」とは、作品に登場する躄(いざり)乞食のことで、その描写は克明で二頁に及んでいる。

数々の作品をとおして見ると、乱歩が描く障害者は、人を描いているのではなくて怪異を高めるための道具立てに利用したという印象が強くなってくる。要するに、謎めいた不気味さを作品に添えるための色付けとして視覚的効果を狙い、そのことで読者が面白がってくれればよいのである。

『一寸法師』『盲獣』の二作品共に主人公は希代の殺人鬼だが、その犯罪は現実に照らせば荒唐無稽で説得力はない。にもかかわらず着想の妙によって多くの人々を惹きつけ、その結果として、一般大衆の根強い差別意識の表層に、上塗りするように歪んだ障害者像を重ねさせた。

乱歩自身は当時の社会一般大衆と同程度の人権認識の薄い障害者観しか持たず、興味本位の好奇心だけでとおした作家だが、故意に障害者を貶(おとし)める意図はなかったと、筆者は思いたい。

しかし乱歩の諸作品が「偏見の構造」、具体的には《障害者=怪しい=悪あるいは犯罪》というような謂(い)われなき短絡的な図式を人々の意識下に醸成する役割を担っていた時代があったということを、疑いのない事実として銘記しておくべきであろう。

(せきよしお フリーライター)

なお、作品集の巻末には、決まり文句のように「今日の観点から見れば、考慮すべき表現・用語も含まれていますが…」との記述があるが、単に表現・用語だけの問題で済まされるものでないことは作品を読めばだれでも気づくはずだ。「…考慮すべき表現・用語が含まれているだけでなく、作品の筋書きそのものに内在する問題…云々」の文言に改めるべきだろう。

(注)『踊る一寸法師』はポオの『ホップ フロッグ』をヒントに乱歩が創作した作品で、読み比べると興味が深まる。

「ポオ全集」(東京創元社)は氷川玲二訳。

「ポオ全集」(春秋社)は谷崎精二訳。

翻訳名はどちらも『ちんば蛙』で掲載されている。