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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2006年9月号

ワールド・ナウ

ネパール・ドリマラ村を拠点にした自立支援活動
~村人との対話からニーズを拾い上げる

垣見一雅

1993年4月、私は縁あってネパール国パルパ県ジャルパ郡ドリマラ村に住むことになった。当時は今と違い交通の便は悪く、首都カトマンズから西に約250キロの距離をバスで10時間。パルパ県庁のあるタンセンに一泊。そして翌日、バスで1時間、さらにバスを降りて徒歩6時間かかってドリマラ村に着いた。長い長い旅だった。

村々を歩き村人から要望を聞く

村に着いて数日後、今何が最も必要なのか、村人たちにミーティングを開いてもらい尋ねてみた。飲料水の問題も出たが、ちょうどその当時、ドリマラ村で行われていた識字教育のための寺子屋式の建物がほしいという要望が出た。学齢期に教育を受けるチャンスを逸してしまった女性たちのための識字教育である。そのとき使っていた教室は、雨は吹き込み、寒さを凌ぐこともできない建物だった。10万円ほどの投資で4メートル×10メートルほどの建物が出来上がった。今思うと、私の活動は第1号の記念碑とも言えるこの建物から始まった。

ドリマラ村を通る近隣の村人たちがこの建物を見て、自分たちの村にも同じような建物がほしい、灌漑用水がほしいと、私のところに誘いが来た。私は周辺の村々では、どんな問題を抱えているのか、自分に何ができるのか、好奇心も手伝って、村々を歩き始めた。一村一村訪れ、村人たちと話し合い、そこに宿泊して問題を探り、村人たちの要望を汲み上げ、その問題をどう解決し、要望に応えるかを考えた。一つの問題が数か月後に、あるいは1年後に解決した。その解決された事業を見て、さらに奥の村々から誘いが来た。この活動スタイルは、この13年間変わっていない。

支援には資金が要る。わずかな貯金は最初の1年ですぐ底が尽きた。1年間の活動報告をするために日本へ戻り、資金集めのために個人的な友人、いくつかのNGOを訪れた。彼らから与えられた善意を村へ持ち帰り、できることをさせてもらった。地味ながらも支援の輪が年々徐々に広がり、与えられた善意を最大限に活かしながら支援が草の根のさらに先の毛根のような人々に届いた。

13年間のニーズと支援―教育、保健衛生、収入向上―

これまでの13年間、村人のどんなニーズに応えることができたのか、そして応えようとしたかを、簡単に振り返ってみたい。

外国からの諸々のINGOが取り組みやすく、多くのNGOが行っているものに、教育関係、保健衛生関係がある。私も初めこの二つに加え、収入向上のためのプログラムを計画し、3本の柱を持って村々を歩いた。

教育関係では、まずほとんどの村から出てくる要望は建物(校舎)だった。仮に建てられた建物がほとんどで、どこも老朽化が激しかった。建物が整っているところでも机やいすがなく、地べたに座って勉強している子どもたちはたくさんいた。次に多いのが教師の給料の問題だ。小学校5年生まで運営していても、そこに5人の教師が政府から派遣される学校は少ない。たいてい1人は不足しており、村はその不足の教師を独自に雇い上げなくてはならない。雇い上げるための資金をどこも大変な努力をして工面している。我々も協力した。さらに教師の質の問題もある。学力、教え方などの問題だけでなく、教師としての意識が低く、授業に遅れる、無断欠勤をする、授業をしっかりと責任をもって行わない教師も多い。そこで教師を対象にした研修プログラムを行ったこともあった。他に理科の実験用具の不足、スポーツ用具の不足など細かなことを挙げていくときりがない。

保健衛生について言えば、一番大きな問題は、手術が必要な病、あるいは骨折などのけがをした場合だ。各郡に一つ、SubHealth Postと呼んでいる応急処置のできる場所がある。診療所というより応急処置室といったほうがよい。そこで手に負えない患者は町の病院へ行かなくてはならない。私がいる村に限らず、他の県にある村でも町の病院まで行くには徒歩、バスを合わせると数時間は覚悟しなくてはならないだろう。

そんな病人のほとんどは町の病院へ行く経済的な余裕がない。それでも高い利子を承知でお金を借り、病院に行く。行ける人たちは恵まれているほうだ。行くことができず苦しみに耐えざるを得ない人、死を待つ人、手足の機能を失ってしまう子どもたちなど、たくさんの人々に出会った。8年前から主に貧しい子どもたちのために医療基金を設け治療、手術に当たっている。

収入向上のためのプログラムも大切だ。現金収入が少ない村人たちが行っている収入を得る方法で最も一般的なものが、山羊(やぎ)、豚、水牛の飼育だろう。大きく育てて売る、という単純なものだ。その他、この地方は生姜の栽培に適しており、数か月で利益が出るのでよく行われている。これらは主に女性の仕事だ。男性が収入を得る方法は、出稼ぎである。数年単位でインドや、数か月単位で近くの大きな町へ行き、単純労働をして現金を稼ぐ村人が多い。

公共的な要望と個人的な要望

活動を始めた当時は、支援対象がかなり限られていたが、今は収拾がつかなくなるのを承知で、ともかく要望はすべて聞かせてもらうことにしている。それらの問題をすべて書き留めておくことで、今、村々にどんな問題が生じているのかを一つの記録として残しておけるからだ。支援する側が思い浮かべることができる問題より、村人たちから上がってくる要望のほうが多いのは当然である。奥地に入り、さらに多くの人に会えば、会った人の分だけ問題は出てくる。

公共的な事業への要望、あるいは個人的な要望も私のノートに書き込んでいく。どちらもたくさんの種類がある。村にとって公共的な事業への要望には灌漑用水路、または用水池の建設、吊り橋、10教室以上の校舎の建て替え、電気など比較的大きな予算が必要なものもあれば、飲料水用タンクの設置、1、2教室のみの増築、幼児教育の開設など比較的小さな予算で実行できるものもある。個人的な要望は、病気やけがの治療、小学生から大学生までの奨学金、身障者への手当、あるいは自立するための資金の要望、火災の被災者への支援、寒さを防ぐための寝具の支援、山羊、豚、水牛などを飼育するための少額資金の貸し付けなど多岐にわたる。

よくこんな質問を日本の方々から受けることがある。「予算は限られている。事業決定に当たり、優先順位をどうつけるのか」。最もな意見だ。限られている予算で出てくる要望すべてを実行することは不可能だ。独断的になってしまうけれども、私の場合、いわゆるベーシックニーズに近いと思えるものにプライオリティを置くことにしている。私の場合、決定するのはさほど難しくない。というのは、自分の目ですべて現場を見ているので状況判断しやすいからだ。

支援先を見極める目

こんな例がある。ある学校からコンピューターがほしい、と言ってきた。もう一つの村からは、灌漑用水路がほしいと言ってきた。前者は食べるというベーシックニーズをほぼ満たしている村で、すでによりよい教育へと頭が向く村である。後者はまだ食べるということにも心配しなくてはならない村だ。当然予算は後者へ行った。

ほとんどの場合、私が支援をしなくとも前者のような村には他のNGOから支援を取れる下地のようなものがある。このような村は、上(郡、県、中央)とのつながりがあるか、道路に近く、外国の支援がこれまで入りやすかったか、あるいは声を出せる人がいたか、そんな要素を持っている村である場合が多い。これまでの経験から感じていることの一つに、もう支援を要求する必要がないほど整っている村々ほど、外国からの支援を要求するものだ。

一方、もっと支援がほしいと言ってもらいたい村ほど、何も言わず、言えず、支援する側も見落とす、あるいは見えないケースが多い。こうして不平等はいつも消えず、開発の差は広がっていき、貧富の差を助長しかねない。なかなか解決しにくい問題であり、課題である。

私は11年前、道路から歩いて6時間ほど奥の村を訪れたことがある。そして一昨年10年ぶりに再び訪れた。「僕が10年前に来たその後、何か支援が入った?」と村人たちに尋ねてみた。案の定、何一つ支援が入っていなかった。道路から徒歩で6時間かかり、最高学歴者小学校5年、声を出す人、出せる人ゼロ。上へのつながり無しの村。

私は今、こういう村々に近いフィールドにいる。そんな村々にプライオリティを置きながら活動が続けられるといいと思っている。

この13年、ほんの一投石の波紋は少しずつ広がっていることを実感している。日本からの善意が村々に届き、村人たちの結集された力が一つ一つ小さな変化を起こしてきた。物の変化だけでなく、たとえわずかでも意識の変化が生まれてきてくれていれば有り難い。俺たちにもこんなすごいことができるんだ。自分の足で立ち上がろう。俺たちはネパール人だ、という誇りを持って、自分たちの村々を育ててくれるといい。

もう13年経ってしまった。十分自立していなくてはならないはずだ。

村人から教えられたこと

村々を歩き、村人と話し、村人の中で生活して自分なりに学んだこと、気付かされたこと、そして教えられたことを最後に記したい。これから私のように全くの素人として活動したい人の参考になれば幸いである。

  1. がんばらない(がんばってしまうと長く続かない)
  2. できるだけ村人たちの目線で現場で活動する(ニーズは現場から、現場に勝る理論なし)
  3. 裨益者とよい信頼関係を築く(信頼関係ができていると、すべての活動がスムーズに)
  4. Don’t be a teacher.Be a partner.(教える立場ではなく、対等な立場で)
  5. 経験をしながら学んでいく(まず行動。考えるのは後でもできる)
  6. 現場の習慣、文化、物の考え方等を尊重する(違っていて当然)
  7. 村人に相談する(相談されるのは、だれでもうれしいもの)
  8. ドーナーに対する礼、報告をしっかりする(寄付金の使い途を明らかにする)
  9. 継続支援をし自立させる努力をする(子育てのように共に育ち合う喜びを味わう)
  10. 楽しむ(支援すること、活動を楽しみ、幸せを分かち合う)

1年でも早く、もう日本からの支援は要らないと村人たちが言う日が来てほしい。

(かきみかずまさ 個人活動家、ネパール・ドリマラ村在住)