音声ブラウザご使用の方向け: ナビメニューを飛ばして本文へ ナビメニューへ

「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2006年12月号

1000字提言

すべての人のメインストリーミング社会をめざして私たちができること

二羽泰子

初めて会った人に、「海外に行かれたことはありますか?」と聞かれることがある。そんな時につい自が出てしまうのである。「はい、初めて行った海外はロシアでしたが、その後もフィリピンに留学し、ガーナの友人に会いに行き…」などと言った日には、いつの間にか周りに人が居なくなってしまう。

うちの家族にしても、私がどこに居ようともうほとんど気にしていない。うちの姉に、「ちょっとタイに行ってくるね」と電話で断って出かけた時も、私たちには何の違和感もなかったのだが、そこに居合わせた姉の友人は腰を抜かすほど驚いたという。「ちょっと駅まで」と言うのなら分かるけど、「ちょっとタイまで」とは何事か!ということらしい。なるほど、そう言われればそんな気もするが、私にとっては実は気分的に変わらないのである。「ちょっとそこまで買い物に行く」時であっても、何せ見えないので、案内をお願いする店員さんが居なければ冷や汗をかいて苦労するだろうし、飛行機に6時間乗ってタイに行く時でも、向こうで友人が暖かく迎えてくれて、私はのんきに食べたいものでもリクエストしてればいいこともあるのだから。

そんな訳で私は、途上国などといかにも行かないほうがよさそうな呼び名で呼ばれる国々にもよく行くことがある。純粋に好きなのだが、それは必ずしも私が変というだけではないことをここで皆さんにも分かっていただきたい。途上国というのはあくまで、経済が発展してませんということだけを意味するのであって、すべてが先進国に比べて遅れてますなんてことはだれにも言えない。どこかで、日本も途上国に比べれば障害者関連の取り組みが進んでいるから、途上国を指導してあげなければと思っていないだろうか。それは時には事実なので、国際援助は必要だと私も思うが、彼らには彼らのやり方があり、ペースがあり、潜在的なリーダーが居る。援助する側される側という関係から、障害者と専門家の間に不和が生じてしまった歴史をご存じの皆さんであれば、途上国援助がどうあるべきか、思い当たることがあるのではないだろうか。私は、現在援助する側にある方を批判しているのではなく、私も含めてすべての人が偏見を持っていると言いたいのである。

途上国の人々でも障害者でも宇宙人でも同じことだが、いくら同じ社会に生きていたとしても、お互いに上下関係のような偏見がある限り一生見えてこないものがある。さまざまな人々が住む社会に生きている以上、自分自身の中にいつの間にか定着している偏見を取り払って、自ら他人と理解し合う姿勢を持たない限り、すべての人がメインストリーミングされるような社会の横の関係は生まれてこない、そう皆さんも思わないだろうか。

(ふたばやすこ ユース交流ネットワーク)