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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2007年10月号

特集 障害を超えた芸術交流

特集にあたって

花田春兆
(聞き書き 坂部明浩)

今号は「障害を超えた芸術交流」というテーマでちょっとした冒険をしてみた。これまでにも、たとえば、本誌1999年8月号では「映画・表現文化」ということで、舞台芸術からお笑い芸まで幅広く紹介されていたし、さらに1996年12月号においては「時代が求める新しい創造活動」という特集のもとに、ちょうどパソコンネットワークの胎動時期にあって、障害者の創造活動の新たな展開を予感させるにふさわしい特集となっていた。

さて、それからおよそ10年の時が経った。その間の障害者の芸術をめぐる環境は果たしてどうなったのだろうか?96年12月号の冒頭では播磨靖夫氏((財)たんぽぽの家理事長)が「アートはその人の個性をつくるのではなく、その人の個性をあらわにする」という名言を述べられていた。また同号で、今中博之氏が福祉イベントにおける演出の重要性を力説されていた。

それらを改めて読み直すうちに、私の中では、アートによってあらわになった個性同士がいい意味で火花を散らす場所を演出(ここでは編集ということになるが)してみたいという気持ちがむくむくと沸いてきたのであった。

しかも、同じ障害をもつ者同士ではなく、違う障害をもった者同士の芸術による個性のぶつかりあいということに今回挑戦してみた。

そんなことを考えた背景には、きっと私自身の芸術の出発点がやはり違う障害をもつ人たちの芸術に触れたことが大きかったことにあるに相違ない。

私の場合は文学、とくに俳句であったが、俳句を本格的に志し始めた昭和20年代後半に、いわゆる“らい病”(ハンセン病)といわれた人たちの中からすでに文学者の北条民雄や歌人の明石海人という名前が広く世に知られていて、さらに時代的には俳人の村越化石氏らにバトンタッチされていった頃の、いわゆるハンセン病文学に、私は心を奪われるとともに、よしっ、脳性マヒのぼくらにだって、これに負けないほどの文学を世に出してみせるぞというファイトが湧いたのであった(ハンセン病文学の置かれた状況と主に脳性マヒの在宅障害者については、荒井裕樹さんの論文を読んでもらいたい)。

たしかに、ハンセン病文学は自身の障害(病気)をとことん見つめているその結晶と感じた。それだけにこちらも創作意欲が湧いたのである。

芸術を志す人に必要な創作意欲をもらえたことは幸運であったかもしれない。というのも現代に至っても案外、障害を超えて他の障害者の作品を目に耳にする機会はどの障害者にとっても少なかったと思われる。

とはいえ、障害者の芸術はいまや無数にある。そこで、今回は同じ芸術分野で違う障害者同士に登場していただくことで、より互いの作品を見比べやすくしてみた。写真、絵画、造形、詩といったように…。見比べやすいということはそれだけ個性はあらわになり、隠れようがないということにもなる。そうしたことにあえて挑戦してくださったみなさんに改めて感謝したい。また、本人ないし関係者の方に作品の創作に関する文章もしたためてもらった。その軸として、今回は「心の原風景」ということを意識してもらっている。

芸術に携わる者にとって、「心の原風景」は大切な宝箱である。小さい時(いや、大きくなってからでさえ)に見た、体験した、聞いた、感じた、匂った、触った、忘れられない心の風景というものが誰にもあるのではないだろうか。芸術を長いことやっていると、作風はその時々に応じて変わることがある。そうした時、ふと、迷いが生じる。はて、自分は一体、何を志していたんだっけ、と。そうした時こそ、振り返るのが心の原風景ではないだろうか。不安な時に、何度でも振り返って舞い戻れる場所、それが原風景というものだ。

私の場合には、幼少の頃に父親が買ってきたキャラメルの包み紙がきらきら輝いて見えたことや、父親の書庫に漱石全集が並んでいたということが文学的表現の出発点にあるのだが、俳句に絞って考えると、小学校の頃に2階の教室から、お寺の裏のもくれんの花が咲いていたのがよく見えたのだが、まさにそのもくれんを題材にして先生が俳句というものを教えてくれたことが、私には忘れられない思い出となっている。目の前の景色が俳句になるというオドロキ。私の当時の俳句に、「日の光 青葉の中の 白い家」というのがあるが、これもまさに自宅から学校までの間に見えた光景を俳句にした作品である。当時は、このもくれんの印象がよほど強かったにちがいない。

創作者にとって、心の原風景に立ち返るという作業はイコール創作者の「こだわり」を持ち続けるということではないだろうか。いい意味でのこだわりが、その人の作品らしさを作品自体がかもし出してくれる。もちろん、原風景の中には、時により辛い風景もあるだろう。そうしたものでさえ、「こだわり」というかたちに姿をかえ、作品となったときに、私たちはその作品を前にどれほどの豊かなメッセージを受けることができるのだろうか。

今回初めての試みだけに、障害を超えた両者が、実際に出会って共同で作品を切磋琢磨するという時間は物理的にも持てなかったことは、こちらの力不足でもあり、ご了承いただきたい。また、芸術表現と障害の関係に触れるのを嫌う傾向もあり、その辺は、今回参加されている人の中にもいると思うがあえて協力していただいている。その点でも感謝申し上げたい。なお紙面の関係で、詩歌文学と美術関係に限らせていただいたし、時間の関係などで協力をお願いできなくて失礼してしまった方も多い。お詫びとご了承をお願い申し上げる次第である。

いずれにせよ、このささやかな試みをきっかけとしてみなさんの創作意欲に灯がともることを念じてやまない。