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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2007年10月号

心の原風景

写真

渡辺直昭

感音性難聴(2級)、1975年頃から写真を撮り始める。1978年よりプロとして活躍。

学生の時に、旅が好きでそれがそのまま仕事になればいいと思い、写真家の道を選びました。プロになって最初に撮ったのは富士山でしたね。旅好きということもあって、自然の景色のほかにも時折、列車なども撮っています。携帯電話の電波も届かないような山奥にはよく入ります。熊に出会うといけないので、鈴をつけて山に入ることもあります。私には動物のやってくる音も聞こえないので、よけいに慎重になります。

心の原風景と言えるかどうかは分かりませんが、北海道の美瑛町はプロの駆け出しの頃から、ですから30年以上前から惹かれていて、何度も何度も100回以上訪れました。そこは、どこまでもつづく雄大な丘なのですが、ある年はジャガイモ畑であったり、ある年は麦畑であったり、ある年はさとうきび畑やビート畑であったり…、植えているものもその年によって違ったりします。で、これは約25年前のことなのですが、同じ丘を眺めつつ。そろそろ道具を片付けて立ち去ろうとして、ふと、振り返ったんですね。そうしたら、なんと、今まで黄色だった麦畑が赤く赤く輝いて見えたんです!夕日の赤が、白い雲で反射されて麦畑に差し込んだんですね。慌てて写真機をセットし直して、シャッターを切りました。その間、わずかに5分。あっという間の出来事でした。

それまでは、人間がただきれいと感じるものを撮って帰ればいいというくらいにしか思っていませんでしたが、やはり、移ろいゆく自然の微妙な変化に合わせることが大事だということを知りました。自然を撮るのではなく、自然から撮らせていただくという気持ちが大事だと思いました。

私はいわゆるアート的な写真のことは分かりません。ただ、美しい瞬間をとどめておきたいという気持ちです。それは絵葉書でもいいんです。いろいろな方に私の撮った写真を使ってもらいたいですね。

朝には、夕方のひと時とは違う朝の良さがあります。湖が穏やかになって湖面が鏡のように山の姿を映しこんでくれるのは、朝ならではの光景です。昼は昼で、花が盛りを迎えます。朝にカタクリの花を撮りに行って失敗した経験もあります。

私の仕事は季節と向き合うと同時に、こうして1日のリズムの中で美しい自然が姿を見せる瞬間を待ち続けている仕事と言えるかもしれません。


写真

勝野一

脳性マヒ(1級)。
1985年頃から写真を撮り始める。現在、ギャラリー経営。

奈良市に生まれ育った私の原風景は、里山であり町ですが、それは人それぞれの見方やタイミングによって感動する風景であり、そこに懐かしさが生まれる時もあります。

最寄りの駅から馴れ親しんだ生活圏に戻るまでの道すがらの風景のなかで「小さな昔の自分の風景」に出会うことがあります。

奈良町の町並みの通りの石畳に打ち水がきらきらと光る。そんな学生時代の思い出の光景が次第に失われてきたことに気づいたのは、20代になってからでした。それまでの私は花など身近なものの接写が多かったのですが、この時から、消えゆく町並みの原風景を撮り始めました。こうして撮り続けることで、やがて地域の歴史資料になって伝えられるように、と思うようになりました。

2004年に50年前に奈良町を撮られた絹谷四郎氏(1923―1990)の写真展があり、その懐かしい写真と対比する形で、私が同じアングルから町並みを撮影したものを並べて展示してもらう機会に恵まれました。絹谷さんは、料亭を経営しながら、愛蔵のライカのカメラで1950年代の地域の光景を撮り続けられた方です。でも、私が撮影を始めて、現地に行って当時の写真と照らし合わせると、まったく違った建物があったり、道幅が狭くなっていたりしてアングルが定まらなかったり、反対に、場所によっては一発で定まったりと、1950年代と現在の奈良町の変化を身にしみて感じました。

私の場合、マニュアルのカメラで撮るのですが、脳性マヒによるアテトーゼでフィルムの装てんに手間取ったり、三脚のねじが締まらなかったりの格闘の連続で撮影チャンスを逃すこともあります。でも、それだけにうまく撮れた写真は障害の有無を問わず評価されますから、そこがいいと思います。

今後も、自分自身の自己表現としての作品展よりも、むしろ、地域の裏方になって未来に残す資料としての写真を一枚一枚撮り続けて、何十年後かにみんなに必要とされるような作品展を開ければいいかなとも思っています。この時代の今を撮り続けることに意味があると感じています。