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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2007年10月号

心の原風景

俳句

岸野千鶴子

1928年生まれ。1986年突発性難聴にて失聴。俳句協会会員。「蘭」「方円」同人。みみより会を経て、聴覚障害者のための通信句会を行う。

夢の世に夫とあそびて手まり唄

囀りを聞きたくて拠る野の大樹

こほろぎと刻を分ちて一人の餉

ベートーベンの散歩道

賞にはおよそ縁のない私が、俳句協会全国大会賞受賞の〈蕗の薹階も小幅に女寺〉に注目したのは、私がよく足を運ぶ鎌倉東慶寺での作であることと、作者である花田春兆氏が脳性マヒの俳人であることに驚きを感じた。「階も小幅」に俳人の眼の確かさを教えられ、初学の私には忘れられない一句である。求めたエッセイ集『ウワちゃんとおはるさん』を読みながら、作句の勉強の参考にした。

昭和46年『鳳蝶』により読売文学賞を受賞の野澤節子はカリエスに冒され、30数年の病床より快復された方、清純無垢な作風と評価された句集『未明音』も手元にある。随想集『耐えひらく心』にはその強靱な精神力に畏敬の念を抱いた。師大野林火の膝下を離れ『蘭』を創刊される。私は夫と共に「蘭」に入会して俳句を学び始めた。昭和46年12月のことである。

私の失聴は全く突然、聞こえの電池が切れたかのように無音界に身を置くようになった。

奈落の底に沈むかのようで、師節子を悲しませた。筆談の日々は言葉が足りないためのトラブルが多く、私の身も心も荒み、身近な友人が一人二人と私から離れていった。

ろう者になってしまった私は、自分を客観的に見つめてみたく、ベートーベンが遺書を書いた家を尋ねることを思い立ち、夫の許しを得てウィーンに旅立った。

ベートーベン自身が難聴を悟り、遺書を書いたハイリゲンシュタットの家は当時のまま残っている。

この遺書の家から続く道を、雨の日も嵐の日も、一日も欠かさず散歩し、散歩することで近隣の人たちに理解され親しまれるようになったと、求めた冊子に解説されている。

小高い丘に登ると、遙かにぶどう畑が拓け豊かな自然に心が癒される。この地を2度私は訪れ、心の風景として想いを刻んだ。自然と向き合うことで謙虚になれる。

最初に出会って感動した俳句は脳性マヒの俳人、そして師と仰いだ方もカリエスの障害のため、坂道を歩かれるのも困難でおられた。しかしその、精神力と純粋な心のありようはお二方に共通する。少しでも近づけたらと、大それた思いを抱いている。


俳句

蘆田禮人

昭和28年6月17日生まれ。54歳。四肢けい直性マヒ。俳人協会会員。「遍照」同人。

緑蔭か非緑蔭か朝の犬

秋深き江戸幕府より四百年

日曜日を働く乙女梅雨晴れ間

私が俳句を作り始めたきっかけは母校(大阪府立堺養護学校)の国語教師で俳人の工藤雄仙先生、その人です。

先生との出会いは母校の中学部に入学した折、先生の不思議な目の光に引き付けられたのが俳句との縁であったと思います。

先生は『飛翔』という俳句雑誌を主宰して居(お)られ、私はその同人になりました。

もう一人は母校のクラスメートで友人の井上雅友氏(現遍照俳句会主宰)で、彼の俳句への情熱は大変なもので、彼は雄仙先生から、俳句の才能を中二の時から認められており俳句を始めたのも早かったのですが、私は堺養護学校の高等部に入学した夏に俳句を始めたと憶えています。雄仙先生と井上雅友氏の二人が居(い)なければ、私は俳句を作っていなかったと思います。

次に作品づくりのこだわりですが、先生がよく言われたのは俳句は「自己を詠む詩」であるということで、それを心掛けておりますが、ともすると評論家的、第三者的な表現に落ち入っていることがしばしばです。

俳句とは「自己を詠む詩であり、自己が主人公である詩」だと思います。

そしてもう少し教わったことを書けば、俳句は「美」としてだけでは不十分で俳句を作ることがその人の生き方に直結していかなければ嘘だよと言われていました。

形式と内容の一致ということでしょうか。

そして、最後の障害が作品にどのようにかかわってくるかですが、障害とは自己の身体、精神そのものであるとしますと、当たり前の話ですが、作品に非常に深くかかわってくると思います。私の拙句を掲げて恐縮なのですが、

真昼日のこほろぎは地を這ひにけり 禮人

この句などは家での移動が這って居りますので、それが作品に投影されたと思います。

雄仙先生の師、石田波郷は一生の大半を結核という宿痾(しゅくあ)によって病床に過ごした俳人です。

波郷の俳句の多くが自己と自己の病いを詠んでいるのに、私の俳句はまだまだ他者的作品の多いところが多く、課題であると思います。

自己と作品が一つに重なり合いたいと思っています。


俳句

中原徳子

1958年香川県生まれ。脳性マヒ。「からまつ」同人、俳人協会会員。

術後ひらいた掌が極月の顔撫でる

腹筋背筋欲しや尺取虫ほどの

太箸やずっと不幸者でゐよう

振り向けば五七五

私の所属する俳誌「からまつ」の主宰は由利雪二先生。雪二先生との出会いは38年前に遡(さかのぼ)る。都立光明養護学校小学部5、6年時のクラス担任。私立中学の教師から障害児教育を志して赴任したばかりの熱意溢れる先生だった。

授業そっちのけで多摩川で魚を追いかけたり蓬(よもぎ)を摘んだり。外で思い切り遊んだり自然に触れたりする体験の少ない障害児にそういう機会を少しでも与えてやろうという教育的配慮と今にして思う。

難読漢字調べという夏休みの宿題で漢字の面白さにも開眼した。ちなみに俳句の季語には難読漢字が多い。光明の大先輩に花田春兆氏、土居伸哉氏がいた。

雪二先生に入門を請い「からまつ」に入会したのは26歳の時。臼田亜浪師系の有季定型ながら自由な句風の結社で、養護学校関係者も多く、私でも気後れすることなくのんびりぬくぬく俳句を作っていた。

転機は俳句を始めて十年目に訪れた。手足が痺(しび)れ動きが鈍くなり転びやすくなっていた。秋になり、丈夫が取りえだった母が癌で急逝。その後私の身体変調も急速に進み、ついに首から下が完全にマヒした。脳性マヒの二次障害、頸髄症である。打ちのめされた。支えてくれたのは家族と友人たち、そして俳句。

幸い頸椎手術が成功、身体機能も驚くほど回復したが、外出は車いす頼みとなった。筋肉が落ちて指がくっつきフニャフニャになっていた手が、手術直後にふわーっと開いたのには心底驚き、人体の不思議、神経の神秘を実感した。

第二の転機はネット句会との出会い。言語障害の重い私にとって、キーボードを叩けば自在に発言できるネット空間は実に快適でかつ刺戟(しげき)に満ちていた。掲示板で歌仙を巻いたりもした。歌人で本誌編集同人でもあった中島虎彦氏も連句仲間だった。今春の突然の逝去は痛惜の極みである。

俳句を始めて22年。いつしか俳句は私の杖となり如意棒となった。長年作り散らかしてきた句をまとめた初めての句集『不孤』、この11月に角川書店より上梓予定。