音声ブラウザご使用の方向け: ナビメニューを飛ばして本文へ ナビメニューへ

「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2007年10月号

心の原風景

短歌

大津留直

1947年三重県生まれ。92年ドイツチュービンゲン大学哲学博士号取得。大阪大学、関西学院大学で非常勤講師を務めた。

あかときの海(うみ)に満(み)ちゆく寂光(じゃっこう)を息(いき)する樹(き)たれわが麻痺(まひ)の身(み)よ

淀(よど)みなく代読(だいどく)終(お)えしわが稿(こう)の内(うち)なるリズム友(とも)言(い)い出(いだ)す

それぞれの楽器(がっき)に挑(いど)む麻痺(まひ)の児(こ)ら不協(ふきょう)和音(わおん)の海(うみ)に歓喜(かんき)す

言えるうちに語り置かなむ戦争は障害の身に殊に酷(むご)きを

障害と短歌

私がそもそも短歌の魅力に取り付かれたのは、都立光明養護学校中学部に在学していた頃、ご自身軽い脳性マヒ者であった長沢文夫という国語の先生が、「障害をもって生まれた君たちは将来、思いもかけない差別や偏見に遭うかもしれないが、一つでもこれというものを身につけてコツコツ続けていけば、何とか切り抜けていけるものだ」と言って、熱心に短歌を教えて下さったのが機縁となっている。私は特に、そのとき先生に教えていただいた万葉集の歌の響きの何とも言えない、「永遠」の波動に共振するような魅力に取り付かれた。それから細々と歌作を続けてきたのであるが、十数年前に「あけび」という短歌結社に入会し、本格的に歌を始めた。

私は出産時の難産による脳性マヒで、かなり重度の歩行・言語障害がある。それにもかかわらず、若い頃はあまりまともに自分の障害と向き合ってこなかった。しかし、丁度(ちょうど)歌作を本格的に始めた頃から、加齢による障害の重度化が進み、自分の障害と向き合わざるを得なくなった。

そもそも、短歌を含めた芸術において、物事を視る視点が個別的であればあるほど、作品が輝いてくることがあり、歌は独特の響きをもってわれわれの心の琴線に触れてくるものである。その意味では、われわれの障害は、もちろん、非常な不便さや痛みを伴うものであるが、同時にそこには、芸術の成立条件である個別的な独特な視点を発見し、それを磨いてゆくチャンスが隠れているように思われる。

私はこれからも、そのような独特の視点を開拓しながら、それを言わば普遍性の鏡に映すことによって、人々の心に響く歌を作ってゆきたい。そのことによって、障害と根気よく付き合いながら、日本社会にいまだに蔓延する「差別と偏見」に立ち向かう真に人間的な連帯を、根元のほうから築いてゆけるのではないか。その「差別と偏見」を理論的に解明してゆくことはもちろん重要であるが、それに対決する連帯を、言わば「永遠」の波動への共振という深いところから力づけてゆくことも重要な課題の一つなのではないか。それがまさに芸術の課題である、と私は思う。


短歌

吉久康彦

脳外傷友の会・高志(富山)

髭剃りの湯を充たしたる洗面の窪みの如く吾はたゆたふ

読みふけりゐる小説のヒロインの名も記憶から奪ふ夕立

ドラマよりドラマチックに今日を終へようと缶入りビールを冷やす

1991年に、僕は埼玉県の熊谷市で、信号が青から黄色に変わろうとした途端、急ブレーキをかけ、側溝につまずいて、ガードレールに頭から突っ込んだのです。

「脳挫傷」。40日も意識を取り戻すのに要しました。すべての戦いは、そこから始まりました。リハビリも終わり、故郷に帰りましたが、日常生活のすべてが夢の中を彷徨っている感覚でした。今から思うとすでに、死んでいたんだと思われるほど記憶にありません。

短歌と出会ったのは、そういった悶悶とした日々の中でした。

短歌は当初、母の趣味でした。母は、母なりにそうした僕の日常を何とか打開したいと思ったのでしょう。「短歌でも……」と、勧めましたが、僕は「短歌なんて!」と、馬鹿にして素直にはなれませんでした。

そんな母への反発と虚勢を張ってみたい気分から、読売新聞富山版の「よみうり文芸」に初投稿しました。

麓では柿のほほえみ満ちた枝 秋の色だと誇示して揺るる。

掲載されて、快感を覚えてしまいました。これが「短歌道楽」へ引きずり込まれる契機となりました。仕事も失い、持て余していた暇が、短歌三昧になる日々に功を奏しました。

執筆は後遺症で、極端に下手ですが、現在はパソコンが、補ってくれます。

短歌は狭い小箱の中の、あがきに思われがちですが、5、7、5、7、7、の短詩形に世界、いや宇宙さえも読み込むことができるのです。

投稿のためのポストへの道程も坐骨神経痛を併発して、歩行に困難がある現在の体力を維持し続けるには十分過ぎる距離(歩数)ですし……。

もうしばらく続けて、苦労した作品が活字になる快感を味わいたいと思います。