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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2007年10月号

1000字提言

自立支援法に思う
~「障害程度」という難題~

玉井邦夫

障害者自立支援法をめぐっては、政局もからんで波乱含みの展開がありそうだ。この制度をめぐってはさまざまな不安が叫ばれたし、その不安は残念ながら現実のものになりつつある現場もある。だが、いかなる制度設計をしようとも、制度の根底には「障害の程度」を公的な基準で判定するという作業があることは間違いない。これがなければそもそも制度は成り立たないのだから。この「障害の程度」を決めるという作業が、考えれば考えるほど難しいものなのだ。

私の長男も、知的障害をもちながら作業所に通っている。支援法の成立に伴い、認定調査員が作業所を訪れ、程度判定のための面接が行われた。考えてもみてほしいのだが、いかに工夫したとしても同じパターンが基本的には繰り返される日常の中で(それは何も障害者の作業所に限ったことではない。どんな職業であっても多かれ少なかれマンネリズムは生じる)、ある日、自分を名指しでスーツに身を包んだ人間が訪れ、名刺とともに丁重に挨拶をしてくれて、自分の発言に大きくうなずきながら相手をしてくれる。こんなすばらしい経験はそうそうあるものではない。

その結果、何が起こったか。長男は、調査員の方にお茶を運ぶといった、およそ日常生活では見たこともないようなソーシャルスキルを発揮したのである。当然、「障害の程度」は軽めに判定されることになる。

子どもの障害が重いことを願う親はいないだろうが、サービスが多くなることを願う気持ちもまた本当だろう。そんな、普段は絶対にしないようなことまでして……と思いたくなるのも人情ではないだろうか。

障害とは個人の特性であると同時に関係性だから、その程度を判定するというのは本質的には無理な作業なのだと思う。そのときの意欲の高低、周囲の人たちからの期待の多寡、環境の工夫、さまざまな要因でパフォーマンスは乱高下する。「平均」の発想は、障害の程度判定には意味をなさない。そんな「平均値的パフォーマンス」など、その人の生活実態の中にはどこにも存在しないかもしれないからだ。しかし、判定はしなければならない。だとすれば、判定結果としての「程度」からのズレに対処するのは、制度ではなく運用、つまりは人の要因だということになる。

支援法の自己負担などをめぐる論戦が始まることは歓迎する。だが、運用の柔軟さをどこまで保障するのかという議論もまた大いに期待したいと考えるこのごろである。

(たまいくにお 山梨大学教育人間科学部障害児教育講座)