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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2008年3月号

文学にみる障害者像

死に続ける子らへ
―池田純子著『ホルマリンベビー』―

荒井裕樹

池田純子の『ホルマリンベビー』は、05年度の「南日本文学大賞」(南日本新聞社主催)を受賞した短編小説である。同紙06年3月22日版に全文と選考経緯が掲載されている。

ハンセン病回復者らによって提訴された国家賠償請求訴訟が、原告側勝訴(01年・熊本地裁判決)で幕を閉じたことは記憶に新しい。その際、療養所に人工妊娠中絶された胎児のホルマリン漬け標本が相当量存在することが公にされた。著者はニュースでその事実を知り、小説に書かずにはいられない衝動に駆られたという。同作はそのような著者の熱意と、法廷の場で勇敢に被害体験を証言した玉城シゲ氏(星塚敬愛園)への丹念な聴き取りをもとに描かれている。

『ホルマリンベビー』は、標本にされた胎児「私」が、自身の「父」と「母」の生涯を語ることを通じて、戦前から「らい予防法」廃止(96年)を経て、国賠訴訟勝訴に至る約60年間の患者の苦悩を描くという構造を持っている。被害に容易(たやす)く順序はつけられないとしても、命として誕生すること自体を奪われた胎児たちは――この子らは弔われることなく化学薬品の中で孤独な「死」を経験し続けてきた――、隔離政策最大の被害者なのかもしれない。同作は、この小さくて大きな被害者の視点から、隔離政策の歴史を告発する意欲作である。以下、小説の内容を簡略に紹介しよう。

『ホルマリンベビー』の「父」と「母」は、ハンセン病を発病したことで故郷を追われ、国立療養所「星の原園」に収容された。2人は療養所の中で出会い、互いの優しさに惹かれ合う。そして友人の勧めもあって結婚することになるのだが、療養所での結婚には大変な困難が伴う。園内は雑居生活のため、たとえ夫婦といえども個室が与えられるわけではない。数組の男女が12畳半の療舎の中で夜を過ごさねばならないのである。また結婚は許されても子を持つことは許されない。そのため男性は断種(不妊手術)され、女性が妊娠した場合は人口妊娠中絶を受けさせられるのである。

そんな中、ひそかに子を産むことを望んでいた「母」は、後に「ホルマリンベビー」となる「私」を身籠もることになる。愛しい小さな命の萌芽は、療養所では同時に罪悪感の芽生えでもあった。「母」は、たとえ子を産んだとしても育てられない厳しい現実と、周囲からの疑いの視線に苦しみながら、逡巡しつつもひたすらに妊娠を隠し続ける。虐げられた者の呪詛(じゅそ)は、悲痛にも、時として同じ弱い立場の者に対して向けられる。園内には堕胎や断種経験を持つ夫婦が、隠れて子を持とうとする同病者に告発の眼を光らせているのである。

時は折しも灰色の戦時下。厳しい食糧不足のもと、療養所の患者たちは栄養失調に苦しみながら、物資を補うための強制労働に狩り出されている。その労働の最中、「母」は突然産気付き、痛みに耐えかねて失神してしまう。運び込まれた治療室で産み落とされた「私」は、「母」の体から分かれるや温もりを味わうことも許されず、看護婦により連れ去られてしまう。しかしその瞬間、「母」は渾身の力で看護婦を突き飛ばし、わが子を胸に抱きかかえる。「私」は初めて味わう「母」の温もりと一片の雪の中、儚(はかな)く短い生涯を終える。この後、「父」は妻を妊娠・中絶させたことを職員にとがめられ断種手術を受けることになり、「母」はわが子を守り切れなかった悔恨と罪悪感に苛まれ続ける。

戦後、治療薬の登場によって患者たちに希望と権利意識が芽生え始める。しかし隔離政策の本質的な部分は変わらない。患者たちの激しい反対にもかかわらず「らい予防法」は改定され、「優生保護法」の対象にハンセン病が組み込まれた。この時初めて患者たちは、それまで受けてきた手術に法的根拠がなかったことを知った。患者の権利獲得のため闘いに明け暮れた「父」は、最期まで実名を明かすことなく生涯を閉じた。最後の言葉は「ああ、やっと死ねる。もう家族に迷惑をかけることもなくなる」であった。

その後、療養所に大きな転機が訪れる。患者を縛り続けてきた「らい予防法」が廃止されたのである。これを機に一人の回復者が国賠訴訟を提訴することになる。この「無謀な挑戦」に園内が大騒ぎになる中、「母」は迷いつつも、原告に加わることを決意する。苛酷な戦いに挑もうとする「母」の心模様は次のように描かれる。

〈国が憲法違反を犯していたと認めれば、理不尽に生きたという思いから、最後に少しでも解放されるのではないか。自分から解放されたい。その時、初めて、私は生きたと言える。自分に挑みたい。80歳の体力と気力が尽きるまで。〉

幾多の困難を経た後、勝訴を勝ち取った「母」は、ホルマリン漬けになった「私」と再会する。「私」は再び「母」に抱かれ、名前を授かり、遺灰の半分を「父」の骨壷へ、もう半分を「母」の故郷へと続く海へと葬されるのである。

ここで歴史背景について簡単に触れておこう。国立ハンセン病療養所では、1915(大正4)年から男性患者に対する断種手術が始められている。当時の文献などを読むと、終生隔離が原則の療養所において、生活秩序を維持するために患者同士の結婚を奨励するが、その一方、子どもが産まれることは避けたいとの目的があったようである。もちろん手術は男性だけではなく、妊娠した女性に対する中絶なども行われていた。そして強調しておきたいのは、これは決して大昔の遠い話ではなく、私たちが生きている現代にも起きていた事実だということである(資料に見る限り最近の事例では、男性への不妊手術は95年に1件、女性への人口妊娠中絶は96年に5件の記録がある)。

ハンセン病療養所では、このように人工妊娠中絶された胎児が、何らかの理由で標本にされていた。あえて“何らかの”と断るのは、これらの中には必ずしも学術的理由によってなされたとは言い難い事例(たとえば劣悪な保存状態や、ずさんな管理体制など)も相当数存在したからである(たとえ“学術的”な目的によったとしても議論の余地はあるのだが)。化学薬品の中で「死」に続けていた胎児たちは、その事実検証とともに、今ようやく慰霊が始まったばかりである。

さて池田氏の『ホルマリンベビー』が大賞を受賞するに際して、審査員たちはその「文学精神」の高さを評価する一方、「文章の瑕疵(かし)」が目立つとの指摘も与えている。確かに同作は、隔離政策の告発と、被害者の尊厳回復への想いが強すぎて、やや俯瞰的で図式的に過ぎるきらいがある。審査員が指摘したように、「小説の文章と、ジャーナリズムの文章が混在している」との印象が否めない(特に作品後半、戦後から訴訟に至るまでの描写は早足すぎるように思える)。

しかし、逆にこのように言うことも可能ではないか。ジャーナリズムを通してハンセン病問題を知った私たちは、ジャーナリズムの言葉でしかこの問題を語ることができない。つまりハンセン病当事者の心の襞(ひだ)を十分に文学作品として結晶化するには、そもそも言葉自体が社会的に未成熟なのではなかろうか(たとえば水俣病を題材に石牟礼道子が『苦海浄土』「天の魚」の章を描き得たのは、天草言葉という当事者と地続きの血肉化した言葉があったからであろう)。

文学の役割の一つに、創造と言葉の力を駆使して、個人的な想いを他者に伝えたり、そのままでは計り知れない他者の想いを想像・共感可能な形に加工することが挙げられる。そのため近代文学は、しばしば社会的に虐げられてきた人々を描いてきた。しかし隔離政策は、被害者の心の内を想像する言葉すら隔離してきた。隔離が真に恐ろしいのは、人々を無知に貶(おとし)めることにあり、隔離される者の痛みを想像する力さえ育てさせないことにある。

当事者の高齢化が進む今、その心の内を描く言葉を早急に成熟させなければならない。そのためには言うまでもなく、当事者との信頼関係の構築が不可欠である。池田純子氏は、並々ならぬ熱意と丹念な取材によって、この課題に挑戦して見せた。審査員が感じたという、読めと迫る「風圧」を、私も少なからずこの作品から感じることができた。

ところでハンセン病患者・回復者による文学は、優生手術を受けた心の傷をしばしば主題としてきた。しかしそれを胎児の視点から描いたものは少ない。最後に、標本にされた胎児の視点から隔離政策の苦しみを描いた作品を紹介したい。谺雄二氏(栗生楽泉園)の詩集『ライは長い旅だから』(皓星社、81年)の中に、まさしく「ホルマリンベビー」を写した趙根在撮影の衝撃的な写真とともに、一編の詩「ボク――ライ園標本室」(70年作)が掲げられている。合わせてお読みいただきたい。

(あらいゆうき 東京大学博士課程)