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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2008年4月号

文学にみる障害者像

アンドレ・ジッド著
『田園交響楽』(神西清訳 新潮文庫)を読んで

竹村實

人間性の獲得

この作品の舞台はスイスのアルプスを望む山村である。時代は19世紀末となっている。人口千人余りの小さな村で、村人たちは牧畜と泥炭採掘の仕事に従事している。冬になると大雪に見舞われ、零下30度近くまで下がる厳寒の土地柄だった。その村に住む一人の牧師の私記の形で物語は展開するのである。

ある日、偶然の出会いから、牧師は一人の盲目の少女ジェルトリュードをわが家へ連れ帰った。その少女は言葉も持たず人間的な成長から一切阻害されている惨めな存在だった。

牧師の家は手狭であり、その上乳飲み子を含め5人の子どもがいた。妻は、「これをどうなさるおつもりなの?」と夫をとがめるのだった。だが、牧師はこの不幸な盲目な少女を献身的に教育し面倒を見る決心をする。ジェルトリュードの姿はこんなふうだった。

『…彼女は1日じゅう暖炉のそばで、防御の身構えをじっとしていた。私たちの声が耳にはいるか、ことにだれかが近寄りでもしようものなら、その顔つきはたちまちこわばるのであった。無表情でなくなるのは、敵意を示すときだけなのだ。少しでも彼女の注意を呼び起そうとすると、獣のようなうめき声を立てはじめた。こうした不機嫌が収まるのは食事の匂いがしだすときだけで、私が差し出す皿にまるで獣のようにがつがつと飛びついてくるありさまは、見るに耐えぬものがあった。』

そんなある日、医師をしている友人が訪ねてきてジェルトリュードの教育法について懇切に助言してくれたのだ。牧師は「迷える羊」である少女の教育に渾身の力を注ぎ、やがてその努力が報われる時が来る。その場面を引用しよう。

『ジェルトリュードのはじめての微笑は、私のありとあらゆる煩いを慰め、私の苦労を百倍にしてつぐなった。ジェルトリュードの顔に突然あらわれた天使のような表情を見て、私は一種の恍惚をおぼえた。けだしその瞬間に彼女を訪れたものは、知性よりもむしろ愛だったように思われたからである。そこで感謝の情がこみあげてきて、思わず私が彼女の美しい額に与えた接吻は、私には実は神にささげた接吻のような気がした。』

盲人の色の認識

その後、ジェルトリュードは牧師の期待をはるかに超えるスピードで知的発達を遂げるのである。このあたりは盲人教育、なかでも盲聾者の教育法に通じるところがあるだろう。ヘレンケラーが言葉を認識していく過程に共通するものがあるように思える。

牧師は次のように言う。

『私はいろいろな物の種類よりも、まずそれらの性質を会得させようとかかったことを思い出す。熱い、冷たい、ぬるい、甘い、にがい、粗い、柔らかい、軽いなど。…次にはいろんな運動、つまり、離す、近づける、上げる、交差させる、寝かせる、結ぶ、散らす、集める、など。…そのうちにもう方式などは捨てて、ついてこられるかどうかはあまり心配せずに、話をするところまでこぎつけた。』

牧師はジェルトリュードに色の概念を教えることに苦心するのである。

『彼女の頭の中に色と明るさの混同が起った。そこで、色合(ニュアンス)という性質と、画家がたしか「色価」(ヴァルール)と呼んでいるものとのあいだになにかの差別をつけるまでには、彼女の想像力がまだいっていないことを私はさとった。どの色にもそれぞれ濃淡があり、色と色とは無限に混合しうるものだということを会得するのが、いちばん厄介だった。これほど彼女を困らせたことはなく、何かというとかならずこの問題に立ち戻った。』

生まれつき光を感じたことのない先天盲の人たちは色を音との関連で認識することが多いらしい。

たとえば、管楽器のフルートの音を青色に感じたり、トランペットの音を黄色に感じるというようにである。これは心理学の研究領域に属するものだとは思うが…。

牧師はジェルトリュードを初めて町の音楽会に連れて行った。曲目はベートーベンの田園交響楽だった。その帰り道、感動覚めやらぬ彼女が尋ねた。

「あなたがたの見てらっしゃる世界は、本当にあんなに美しいのですか?」

牧師はジェルトリュードに悪や罪や死のことをまだ教えていなかった。そのため、彼女は音楽会での美しい諧調が実世界を表したものと思い込んだのだ。

背徳と悲劇

夫がジェルトリュードを町の音楽会に連れて行ったことに妻は不快感を示した。

「家の子供には、一人にだってしてやろうとなさらないことを、あの子にだけはしておやりになるんですもの」

だが、牧師はそんな妻の不満を無視した。彼の心にはいつかジェルトリュードに対する愛の火が育ち始めていたのである。そんな矢先に長男のジャックがやはりジェルトリュードにひそかに思いを寄せていることを知り、2人の仲を遠ざけるためにも、彼女を資産家のM嬢の屋敷に預けることにしたのだった。

やがて、ジェルトリュードはM嬢のしとやかな人柄にすっかりなついて、穏やかな日々を過ごすようになっていた。

ある日、牧師はM嬢の屋敷を訪ねる。

『…私は彼女の部屋まであがって行った。2人きりだった。私は長いこと彼女を抱きしめていた。彼女はこばむような動作はいっさいしなかった。彼女が額を私のほうへもたげたとき、私たちの唇はぴったりと合わさった。』

このシーンにはジッド一流の背徳の匂いを感じ、率直に言って違和感を覚えた。

一方、友人の医師の勧めで、ジェルトリュードの開眼手術が行われることとなり、それが成功するのである。目が見えるようになったジェルトリュードが牧師の家を訪ねてきた。家族は彼女のために祝宴の準備を進めていた。その中で牧師はこう思うのである。

『今まで私の姿を見ずに愛してくれた彼女に、この姿をさらさねばならぬ―それを思うと、見も世もあらぬ思いがする。これが私だとわかってくれるだろうか。…』

牧師の心配は現実の悲劇につながっていくのである。

ジェルトリュードは初めて牧師の妻を見て、その表情の暗さに胸を突かれる。自分の存在がいかに牧師の妻の負い目になっていたかを悟るのである。M嬢の屋敷に戻ったジェルトリュードは川に身を投げる。助けられて一度は意識を取り戻すのだが、翌日には肺炎が悪化してこの世を去るのである。

死期が近づいていたジェルトリュードは牧師に語りかけた。

「ジャックさんを一目見たとき、あたしはたちまち、自分がお慕いしていたのはあなたじゃなくて、あのかただったことを悟りました。あのかたは、あなたにそっくりの顔をしてらしたのです。というのは、つまり、あたしが胸に描いていたあなたのお顔に、そっくりだったのです。…ああ、なぜあなたは、あのかたのことをあたしにお断わらせになったの?あたし、あのかたと結婚ができたのに…」

牧師がなぜジェルトリュードを愛するあまり、息子ジャックを遠ざけ不倫の罪にわが身を追い込んでいったのか。なぜ、盲目のジェルトリュードを父と息子で互いに愛するというキリスト者としてあるまじき所業に及んだのか。これがアンドレ・ジッドの文学観だとしたら、どれも共感するわけにはいかない。作者は小説の末尾に牧師の言葉として、

『私は泣きたかった。けれど私は、自分の心が砂漠よりもひからびているのを感じていた。』

と書いているが、妻子があり、しかも神に仕える牧師の身でありながら、敢えて罪深い不倫の道にのめり込んでいった男の心情には同情し難い。これは障害者と宗教者を登場人物に据えた背徳と悲劇の物語である。

(たけむらみのる 元都立文京盲学校教諭)