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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2009年5月号

1000字提言

「開発スクール」からのパースペクティブ

森壮也

私が仕事をしているアジア経済研究所には、開発スクール(IDEAS)と呼ばれる経済協力・開発援助の現場で活躍するエキスパートを養成するコースがある。そこで私は『障害と開発』の授業を担当している。開発途上国の現場で活躍する人たちに、途上国にいる障害者の問題にも気づいてもらい、彼らが専門家として活躍する際に障害をインクルーシィブ(含めることが)できるような活動をしてもらえるような授業をしている。

社会福祉や医療ではなく、開発の領域から障害にアプローチするというこの新しい試みは、さまざまな形で生徒たちに刺激を与えている。開発や途上国の問題と障害の問題が非常に良く似た側面を持つことに彼らは気づいていく。途上国の障害者の問題が、決して慈悲や福祉だけの問題ではなく、まさに開発の問題であることに気づいていく。

一方、彼らから私が受ける刺激も大きい。たとえば、障害者の権利条約は、ここでは国際協力の問題としてまず教えられる。すると、援助国側がこの条約の批准でためらうのは、手話通訳や介助者のコストがかかるからではないのかという質問が出てくる。こうしたコストの問題は、確かに乗り越えられないとならない課題である。だれがその費用を負担するのか、政府か、それは途上国の政府だろうか。財政的に苦しい途上国の政府が費用を負担できないこと、それが途上国の障害者の権利が実現できていないことの問題の一端だというのであれば、先進国がそれを負担すべきなのだろうか。では、途上国でのそうした費用についてのきちんとした調査はあるのか。調査がなければ、援助に必要な金額の計算はできない。

途上国では、政府ではなく、市民セクターによってそうしたコストが負担されているという議論もあるだろう。そうだとしたら、政府でもない、市民セクターでもないもうひとつの開発の担い手である市場・企業は、途上国ではどうしているのだろうか。国際協力は、これらの三つが皆、それぞれの仕方で、障害者と関わるものになっていかないとならない。

日本での障害者の自立のあり方は、途上国も含めた世界的なパースペクティブで見てみると、ずいぶんと相対化される。その中で、どういった支援のあり方が望ましいのか、そんなこともこの開発スクールでは考えている。そして私もより良い世界を作っていくために何を研究していかないとならないのか、常に途上国、そして教育・研究の現場との対話の中で考えている。

(もりそうや 日本貿易振興機構アジア経済研究所主任研究員)