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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2009年9月号

私の子育て体験
ライフステージ~それぞれが自分らしく~

池田まり子

「おかー、新しい学校で友達たくさんできたよ」と微笑む小学4年生のお兄ちゃん。2年生の弟と近所の友達と夕方まで遊び、「お腹すいたぁ、夕飯なに?」と汗びっしょりの二つの顔が並びます。よくある家族の光景ですが、少しだけ違うのは“おかー”である私に脳性マヒという障害があることです。私たち親子は、今年の春に新しい生活を始めました。

私は、難産の末に仮死状態で産まれ脳性マヒになり、手足と言語に障害があります。高等部まで横浜の養護学校で過ごし、卒業後に入所していた更生施設で相模原の障害者団体の仲間と出会い、刺激を受け施設から飛び出し、約20年間、相模原で障害者運動やいろんな活動に関わってきました。当時は、それまですり込まれた考え方等を180度変えてしまうほど強い衝撃の連続でした。「重い障害があっても街の中で介助を受けながら自分の意志で暮らしていける」「結婚・出産し子育てをしている仲間もいる」。その頃の私にとってそんな話や場面は夢のようで、障害をもつ仲間に「できないことは手伝ってもらえばいい。どんな生活をしていきたいか自分で考えて決めていくことが一番大切」と教えられました。

仲間たちに支えられながら一人暮らしを10年続けた後、同じ障害をもつ人と結婚しました。そして妊娠、出産の病院探しから大変でした。重度の障害者の出産が理解されない、怖がられる…。1人目の出産の時、病院で「おめでたです。おめでとうございます」ではなく、「堕ろしますよね」という一言から始まり、闘いの日々でした。出産まで理解ある保健師さんと共に病院との話し合いを続け、育児指導も私の障害や生活状況に合わせたやり方を一緒に考えてもらいました。私は近くに親類がいなかったので、妊娠、出産、育児、本当に不安でした。でも、育児経験のある障害者の仲間や周りの人たちの支えもあり、パートナーと協力しながら育児をしてきました。

1人目が産まれたのは10年前、まだ制度が整っていない頃で逆にそれがよかった面もありました。市から派遣されるヘルパーのほかに、有料介助、ボランティア、友人等、さまざまな人に関わってもらい、市のヘルパー以外は枠に縛られず、いろいろと頼めました。そのおかげで、ワタシ流の育児ができました。私のこだわりは、おむつもミルクも私が判断して、私の指示で目の前でやってもらう。食事も私の味で作り食べさせたい(家事も身辺もほとんど介助が必要ですが、今も食事作りは細かく指示しています)。日々の世話も大変でしたが、検診や急病等で病院に連れて行く時の人捜しも大変でした。

2人目が産まれてから1年半後にスタートした支援費制度は、子育ても障害者本人へのサポートとして位置づけられていましたが、自立支援法になってからは、基本的に本人のことしかしない、またヘルパー制度が整ってきたことで、障害者本人がヘルパー以外のサービスやネットワークづくりの必要性を感じられず、その手段や機会を奪われてきているのも確かだと思います。

現在の制度は、障害者のライフステージの実現を全く考えていないといっても過言ではなく、柔軟な対応ができないため、いままさに出産~乳幼児期の育児をしている障害者にとっては、大変な時代なのでしょう。

そして小学校。私の子どもたちは、相模原でバリアフリーの学校に通っていたので、わりとハード面は楽でした。入学した年、運動会で席を用意され、そこから動けなくて、心遣いが逆に困りました。また、PTA活動への関わりからも遠ざけられやすいのですが、昨年は無理ではないかと言われながら、文化広報委員になり、関わっていく中でパソコンや講演会の準備等の得意分野を理解されました。PTA活動はほかのお母さんたちと関われるよい場です。担任の先生や校長先生と話し合い、子どもの通う学校の活動に、ほかの保護者と一緒に“私のできるカタチで関わりたい”と伝えてきました。せっかく理解が深まったのに転校で残念ですが、また子どもと一緒にゆっくりと新たな関係づくりをしていきたいと思っています。

長男が1年生の時、さまざまな事情で約7年間の結婚生活にピリオドを打ち、私はシングルマザーの道を選びました。その頃は保育園、学童、社協の子育て支援等を利用していました。子どもと私の利用する制度がバラバラで、制度上どちらも対応できないことも出てきます。障害者が子育てをしていく時にこれらの制度のリンクと柔軟なサービスが必要だと、障害をもちながら子育てと仕事をするシングルマザーとして痛感しました。もちろん障害の有無にかかわらず、シングルマザー(ファーザー)に対する偏見をなくし、支援の充実が図られることを願います。

私は今年の春、再婚して子どもたちと新しい地での生活をスタートさせました。同じ障害をもつパートナーは、私が仕事で忙しい時などよく子どもたちの勉強を見たり話を聞いてくれています。

自分の歩んできた道を振り返ると、この20年間“当たり前に、自然に、私らしく”という思いで走り続けてきたなあと思います。そしていつも願っているのは、“だれもが自分らしく生きられる社会”、障害者施策の見直しをしていく際には、一人ひとりが自分らしいライフステージを実現できるようなサービスの充実を図ってほしいです。

障害の有無にかかわらず、緩やかで一人ひとりが心豊かで共に生きられる社会をめざして。

(いけだまりこ 町田ヒューマンネットワーク)