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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2009年9月号

文学にみる障害者像

渡辺一史著
『こんな夜更けにバナナかよ 筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち』

松永千惠子

この本は、見ての通り意表を突く表題なのだが、中身もありきたりのボランティア本や福祉の本ではなく、「進行性筋ジストロフィー」(以下、「筋ジス」と記す)が進行して人工呼吸器をつけて自立生活を送る鹿野靖明氏と、彼を支えるボランティアとのやりとりを軸に、きれいごとではない福祉の現実の下、濃厚な心と心のぶつかり合いや人間としての成長の過程を見事に映し出した出色の出来のノンフィクションである。

著者の渡辺一史氏は、デビュー作の本書で第35回大宅壮一ノンフィクション大賞と第25回講談社ノンフィクション賞を受賞している。

主人公は北海道在住の実在の人物、「筋ジス」の鹿野靖明氏。全身の筋力が徐々に衰えていく「筋ジス」を発症したのは、彼が小学校6年生のときだったという。以来、中学・高校を養護学校で過ごし、18歳のとき足の筋力の低下により車いすの生活となった。32歳のとき心臓の筋力低下により、拡張型心筋症と診断され、その後、首の筋力低下により、ほとんど寝たきりの生活になっていた。動くのは両手の指がほんの少しという一種一級の重度身体障害者である。加えて、35歳のとき、呼吸筋の衰えによって自発呼吸が難しくなり、ノドに穴を開ける「気管切開」の手術をして、「人工呼吸器」の機械を装着した。以来、一日24時間、だれかが付き添って痰の吸引を行っている。

「なんでコイツ、24時間介助されて狂わないんだろうって、みんなが不思議がるわけさ。そこでいろいろと発見が始まる。不思議発見だね」身動きできないベッドの上で、鹿野はそういって愉快そうに鼻を鳴らす。

「なぜなんですか」

「それは自分をさらけ出すことによって……だって、さらけ出さないと他人の中で生きていけないでしょ。できないことはしょうがない。できる人にやってもらうしかない」

そこで鹿野氏は、必要に迫られて、自身を支援するボランティアの養成に乗り出す。新人ボランティアが来るたび鹿野氏は、キビキビした声で自身の体の状況や病状、そして医療的ケアの注意点について解説、指導を行った。そうやって、ボランティアは引き継がれていったのだが、ここでは支援する側と支援される側の地位の逆転現象が起きていた。鹿野氏は、新人ボランティアに研修を施す「教授」であり、支援を受ける側の“腰の低さ”あるいは“卑屈さ”は彼には微塵(みじん)も見られない。生き生きとし、張りのある声でボランティアたちに指示を出す。逆に新人ボランティアたちは、生きた研修を行う鹿野氏に統率され、支配下に置かれる。鹿野氏は新人ボランティアに無料で知識を提供し、指導を行う感謝される存在であり、それは、何事も「できない」という「弱者」ではなく、「できる」というポジションを得た「強気の存在」であり、それによって彼は自身のアイデンティティを確保していた。

しかし、実は彼の内面は大変繊細で内気、そしてどちらかといえば「弱気な人間」だった。鹿野邸には、ボランティアと鹿野氏の間にノートが備えられ、彼らの考えが日々書き込まれていたが、鹿野氏もそのノートに難病と共に生きる率直な心の内を書き込んでいる。

97/1/18(水)鹿野より

障害者なんていや。もう死なして、と思ってしまう。

今は、本当にノイローゼになるぐらい、毎日、朝まで眠れない。外出しないと気が狂いそうだ。みんなごめんね。

当時の身体障害者の生活は、一生親の世話を受けて暮らすか、あるいは入所型の身体障害者の施設で暮らすかの二者択一だった。彼はそのどちらでもない、「自立生活」を選んだのだが、それはイバラの道でもあった。その背景には、国際障害者年以降のノーマライゼーションの思想の普及や、1983年に米国「自立生活運動」の中心人物であるエド・ロング氏が北海道で講演を行ったこと、そして彼が小山内美智子氏の「札幌いちご会」のメンバーであったこと、その結果、彼が「自立生活」に漠然とした期待を持つように至ったことが考えられる。

また、当時はちょうど福祉の転換期にあり、北海道行政が行った先駆的な取り組みである公営の「ケア付き住宅」の恩恵に彼は浴している。だが、いかんせん、車でいえば初期故障のような目にあっているのだ。鹿野氏は実は結婚し、新婚時代を札幌の「ケア付き住宅」で過ごしている。大変な倍率のなか、入居したにもかかわらず、周りの想像とは異なり居心地のいいものではなかったようだ。

鹿野はケアも家庭も安定して、さぞかし幸せに暮らしているのではないか、奥さんも介助もしないで3食昼寝付きでのんきに暮らしているのではないかとお思いの方もいらっしゃることと思います。でもここで声を大にして言いたいです。今の世の中、重度の障害者や、その家族が楽に暮らせるほど豊かではない。

本書は、鹿野氏が死去することにより幕を引く。葬式には、シカボラのOBが全国から多数集まり、鹿野氏との在りし日を忍び、鹿野氏との出会いによって人生への向き合い方が大きく変わったことを再認識する。

以上がこの本の筋書きなのだが、本書の魅力の第一は、言うまでもなく鹿野氏の強烈な個性にある。彼は、はっきりと彼がしてほしいことと、してほしくないことを主張し、自分自身を誤魔化さずに生きている。彼の身の回りで何か気に入らない出来事があれば、カンシャクを起こし、そのときに運悪くボランティアがぞんざいな事をしようものなら「帰れ!」と言葉を投げつける。彼の「ワガママ」に皆、一度は辟易し、怒りの感情すら覚える。

日本では、支援を受ける身の上というのは、社会にあって、常に「ありがとう」と感謝の意を表すべきだ、という考え方があることは否めない事実である。それも不適当な支援、うれしくもない支援にも、である。それは社会の中で摩擦を起こさないようにする暗黙の社会ルールなのかもしれない。障害のある人というものは、自己主張はせず、じっとおとなしく生きていくものだ、という考え方に、人は、これはどこか本当はおかしいことではないか、と心の内に感じているところに鹿野氏の意識、考え、行動を知る。

実はここに、本書が大きく投げかけているテーマがある。そのテーマとは、障害のある人の支援を受けながらの人間らしい暮らしとはどういうものなのか、ということである。

鹿野氏は、本書を読む限り、自身の希望、要求には率直であり、周りの人間は、それに振り回される場合もある。時にボランティアと喧嘩(けんか)をする鹿野氏に、「えっ、こういう態度をとっていいの?」という読者の声が聞こえそうなほどである。しかし、読み進めるうちに、そういう彼のふてぶてしい態度が少しも嫌ではなく、何だか好ましく思えてくるから不思議だ。実に人間らしく、そして壮絶なまでに生きることに一生懸命な姿に、魂が揺さぶられてくる。

本書の中でノーマライゼーションとは、障害のある人たちに健常者と同じ生活や環境を整えることのみを意味するものではなく、障害のある人も自分の要求を主張し、時に「ワガママ」を言いながら暮らす権利も意味するのではないか、ということを読者に問いかけているのである。人間らしい暮らしとは、人の内に潜むエゴイストな人間性も認めるということ、人間の正の部分も負の部分も丸ごと含むということを伝えているのである。

第二の魅力は、若者が人のためにその身を投げ出し、誠実に自分自身探しを行っている姿に触れ、感銘を覚える点であろう。人のために役立つとはどういうことなのかを自問自答し、まるで修行僧のように、鹿野氏の要求に応えていく者もあれば、反感を覚え、ボランティアを中止し、鹿野氏の下から去る者もいる。そのやりとりに人間としての成長過程が鮮明に映し出され、読者は清々しい共感を覚える。

今、この原稿を書くために本書を読み返し、改めて、人というのは各々の人生をそれぞれの形で生きている、それも社会の中で大変な思いをしながら、と痛切に感じた。障害のある人の生活や人生、そしてボランティアをする人の姿勢は一つの形しかないわけではない。本書はこれから福祉の世界に入って行こうとする人たちに、ぜひ、手に取ってもらいたい一冊である。

(まつながちえこ 国際医療福祉大学准教授)