音声ブラウザご使用の方向け: ナビメニューを飛ばして本文へ ナビメニューへ

「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2009年11月号

ワールドナウ

イタリアの精神保健~光と影

加藤房子

イタリアへの思いと作業所開所

22年前に開所した作業所の名前は「il Gruppo パレッタ」。小規模法人をとったら「クオレ」。相談支援事業は「アミーチ」つまりイタリア語。なぜかと言うとお手本が、法律で精神病院を閉鎖したイタリア、中でもトリエステなのだ。そこで「目指せトリエステ」という思いからの命名。その頃、作業をしない作業所は、行政としても許せなかったでしょうし、「あなたの“したい”を応援します」というキャッチフレーズは、家族の方からも白い視線を浴びた。

今回の研修で何よりの収穫は、ヴェローナ大学のロレンゾ・ブルチ先生からの「あなたが目指してやってきたことは正しい」の一言だ。「しかし、いざという時、病院を頼ってきたのは罪だ」と言われてしまった。そういえば日本では、福祉と医療は車の両輪と言われているが……。

目指せトリエステ

トリエステは、イタリアの東北の端っこ、人口は24万人強で隣はスロベニアという国境のフリウリ・ヴェネツィア・ジュリア州の首都である。丘の中腹一面に広がる広大な敷地にある有名なサンジョバンニ病院(跡地といえばよいのか)でペッペ・デッラックア先生たちにお話を伺った。ここは最後に廃止された精神病棟の記念として、今は精神保健局になっている重度女性病棟だった部屋である。

イタリアは1970年代には国民投票があり、離婚や中絶が認められ、妻も財産の相続などができるようになり、お金持ちでなくても国民健康保険に入れるなど国民の「平等」意識が強まり文化が変わってきた。そこで、保健機構をどうするか、精神病院はどうすればよいのかについても国を挙げての社会問題となり、遂にトリエステ県知事は1977年に「この日以降、精神病院への入院を一切無くす」と発表し、翌年108号(別名バザーリア法)が公布された。

昔、ここでは生活に必要な農業・牧蓄などすべて賄われていた。ということは、隔離収容だったということだ。しかも多いときには1200人もの患者が収容されていた。今は、サン・ジョバンニ公園となり500種類ものバラの花が市民や利用者により手入れされて咲き誇り、病院だった建物は、保健福祉局・精神保健センター・グループホームになっている。また、幼稚園から工業高校・トリエステ大学の研修棟5棟も入っていて学生寮もあり、レストランはもちろん苺放送局(協同組合として)まで実に多様に使われている。国立の大学から半官半民の施設、全くの市民運営のいろいろな事務所も入っていた。

3年前に来た時に比べ建物がすっかりきれいになっていたのにはびっくりした。鉄格子のある窓、クモの巣だらけの幽霊屋敷は少しは残るものの、ほとんどの建物はハプスブルグ家の象徴である日本では考えられないような明るい黄色で、おまけに窓枠は赤や緑に衣替えされている。昼時のレストランは予約がとれないほどの大盛況だった。

デッラックア先生は、何を基本に動くかについて40年も考えてきた結果「病院の中では病名や薬がついている“物”になってしまう、入院したら人間でなくなってしまう、そうではなく今、目の前にいる苦悩している人は同じ人間であり生活上困っている人だという視点から、この人はどんな生活をしていたのだろう? どんな感情をもっているのだろう? と、たくさんの“?”に関心を持ち、その人の周りの様子、家族は?どんな部屋で暮らしていたのか? を見てくると危機になる段階が見え、その始まりにたどり着く。それは自分の診察室ではなく地域の中で分かってくる。専門職というより、現場で絡み合うと地域の中でのその人の状態を知り、予防も可能になる」とごく当たり前に語った。残念ながら、日本で地域に塗れている医者は……? 従来、病院で働いていた人をそのまま地域ケアをする人にするなんて……!

ちなみに、精神保健センターの一つ、マッダレーナセンターを紹介しよう。案内役は看護師のアンドレア。半ズボン姿で(今年の北イタリアは例年になく猛暑)気楽なナイスガイ。トリエステには1か所の保健福祉局と5か所のセンターがあり、ここもその一つ。入院病床は総合病院の中に緊急用として8床と各々のセンターに8床ずつしかなく、ここは元の古い建物からこの春にマッダレーナ病院を改修して移転したばかりである。地上3階建ての1階は午前8時から午後8時までオープンしているゾーン(部屋とはいわない)となっており、鍵がかかっているのは薬を預かっている部屋のみだ。2階は2人部屋が2つと1人部屋4つの宿泊ゾーン。3階のミーティングルームは公共的で町内会館といったところだろうか。市民参加企画による映画鑑賞会やコンサート、市民(もちろん利用者も市民)のためのスペイン語講座まである。スタッフは30人もいて、活動は4台の車のフル稼働によるアウトリーチを主としている、行き場の無い人の居場所や社会に出て働きたい人のための準備支援もしている。

イタリアではホームドクター制度がしっかりしていて、生まれた時から病歴だけでなく家庭の様子も把握しており、センターとうまく連携している。センターでは食事も薬も無料で、利用料をとられることはない。センターの役割の一つにこのホームドクターや教育現場からのコールに24時間対応することがある。また、急性期には4地区にかかわらず最寄りの病院に行くが地域に戻る前から介入して、家族や地域に戻りやすい体制を整えることも重要だ。

トリエステは国境の町の特徴として、市営住宅をたくさん持っている。そこでセンターは住宅取得の手伝いもする。イタリア式協同組合(コーペラティーバ)と連携して、必要とする人には働く場の提供や新しい職場の開拓も行っている。

そしてヴェローナ・アレッツォ

私たちはヴェローナ大学のブルチ先生の研究室でパワーポイント50枚ほどのこの地域の精神保健システムについて、しっかり学んだ。ここも国立の大学医学部に併設のセンターがあり、このセンターはイタリアの定番といえるスタンダードなシステムで、人口15万人辺りに1か所ずつある。住民の精神問題を抱えた人の治療はここで行われる。「日本では200日も入院すると聞いたが、イタリアでは、自傷行為があり他では手に負えない危機の場合でも入院は20日。その後は地域の機関で治療になり、恋をするのも治療の一つ」とか。気になる人がいると身なりも整えて外出するモチベーションが高まり、今まで忘れていた感情を取り戻す有効な手段となるわけだ。なるほど。

トスカーナ州のアレッツォ県は人口33万5千人。ルネッサンス時代の古い教会のフランチェスカのフレスコ画があるところ。駅から広場を通り教会まで行くと、その先は山へ向かうかなり急な登り坂になっている。1971年からこの教会とつながっている建物に精神保健センターがある。さりげない小さな看板がかかっている。

ジャン・ピエロ・チェザリさんにお話を伺った。アレッツォ市の近く13万人に対応している。センターを利用しているのは年間2300人ほど。ここではプライバシーを大切にするということでベッドはない。入院が必要な人は、20年位前から総合病院に行っている。どうも、法律をどう解釈するかは州によって違いがあるようだ。昨年から取り入れられているアレッツォ方式ではひどくなるまで放っておかず、とにかく早期介入で予防に近いやり方を自宅で行う。今年のキャンペーンは小児科で、来年は小学校入学前の子どもたちについてと、勉強会など最初の段階を見過ごさないように工夫がされている。

問題の光と影

こんな光に満ち溢れた素晴らしいことだらけのイタリアにも影はある。去る9月、ヴェローナ大学のブルチ先生が日本で講演された折、恐れながら宿題をお渡しした。それは、ひどい虐待が行われているという司法精神病院についてであった。私が「宿題やった?」と聞いた途端に、居合わせた皆が感じるほど彼は熱くなった。「病理学上精神障害の人を100%幸せにすることはできない。限界がある。地元に連絡できない人もいるし、医者のなかにもいろいろな考えの人がいる。今年テレビで、ひどいところだけを撮った放送がされたが、病院がテレビ局を訴えて勝ったということもあった」。つまり、司法病院でひどいことが行われている場合も無くはない、治療をしない医者もいるしマフィアもいる。患者のためのことをしない所にお金が行くこともあるわけだ。そこで、「今45歳以上になっている医者の頭を変えようとしても無理だから、夢も希望もある若いうちに動いてほしい」と言われてしまった。

もうひとつ、やはりというか…、お金のかかる私立病院というものもあり、素敵なホテルのような建物で、外出の自由が奪われて治療を受けている人がイタリア全土で4千人弱いるということである。地域が充実すれば無くなるだろうというが、そういえばセンターのベッドはどれも殺風景でちょっと情けなかった。

そして、今回の研修の仲間の共有の思いとして湧いてきた日本の見通しの暗い部分が一つある。都会であればあるほど“生まれた時から知っている関係”なんていう地域は作れないということだ。そもそも、家族・地域・ホームドクターがあってこそ可能になる。だから「目指せトリエステ」なのだ。根本となる家族力・地域力を持つことができるのだろうかという不安はある。ようやく“うつ”や“自殺”が公に取り組まれるようになってきた。ACTの活動もボチボチ進んできている。ソーシャルワーカーが変わることが大事だと何度も言われた。帰国して1週間、「はぁー、先は遠い!」とため息をついている。

(かとうふさこ 全国精神障害者地域生活支援協議会常任理事)