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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2010年1月号

文学にみる障害者像

横塚晃一著『母よ!殺すな』

鈴木雅子

『母よ!殺すな』(すずさわ書店、1975年)は、1978年に42歳で他界した障害者運動のリーダー、横塚晃一の発言集である。発言は口述筆記によって書き留められ、障害者団体の会報などに発表された。それらを本にまとめることを勧めたのは、自らも脳性マヒの妹をもつジャーナリストの本多勝一氏であったという。

1935年に埼玉県で生まれた横塚は、生後10か月の時一週間続いた高熱で脳性マヒになった。全身が不自由で言語障害もあり、歩けるようになったのは5歳の時だったという。16歳で板橋区の整肢療護園に入園し小学6年に編入したものの、児童福祉法の適用切れにより中学2年の途中で学校教育をあきらめなければならなかった。その後1年間、国立身体障害センター(現国立障害者リハビリテーションセンター)に入所し、退所後は自宅で養鶏業を営んでいたが、1964年、28歳の時に茨城県石岡市で「マハラバ村」身障者共同体運動に参加する。この生活共同体で僧侶、大仏空(おさらぎあきら)と出会ったことが人生の大きな転機となった。横塚はここで障害者としての自覚に目覚め、思想的基盤を確立する。

やがて共同体では複数のカップルが誕生し、横塚も同じ障害をもつ関口りゑと結婚した。ところが69年に共同体が崩壊したため、仲間とともに川崎市に移り、脳性マヒ者団体「青い芝の会」の運動に加わることになる。

当時、日本では親による障害児殺しが社会問題となり、事件のたびにマスコミは、「施設がない故の悲劇」「可哀そうな親を救え」という論調を繰り返していた。

1970年に横塚らが最初に取り組んだのは、重症児殺し告発運動である。この年、横浜市で母親による脳性マヒ児の絞殺事件が起き、子育てに疲れ絶望的になった母親への同情が、地元町内会などの減刑嘆願運動となって現れた。これに対して横塚らは、「重症児に生きる権利はないのか」「罪は罪として裁け」と訴えたのである。

横塚はこう主張した。

なぜ彼女が殺意をもったのだろうか。この殺意こそがこの問題を論ずる場合の全ての起点とならなければならない。彼女も述べているとおり“この子はなおらない。こんな姿で生きているよりも死んだ方が幸せなのだ”と思ったという。なおるかなおらないか、働けるか否かによって決めようとするこの人間に対する価値観が問題なのである。この働かざる者人に非ずという価値観によって障害者は本来あってはならない存在とされ、日夜抑圧され続けている。

(「母親の殺意にこそ」より)

「施設があればあのような事件は起こらない」という世論に対し、横塚は、障害者を「劣った存在」「価値のない存在」とみなし、だから生きていても仕方がないと考える健常者の価値観(差別意識)こそが問題の根底にある、と喝破したのである。

「殺される側」の障害者からの発言は大きな反響を呼び、裁判では、当時としては異例の(執行猶予つき)「有罪」判決が出た。横塚らの運動が初めて社会を動かした瞬間であった。

さらに横塚は、施設さえあれば障害者問題は解決するといった当時の風潮にも異議を唱える。

障害者の収容施設とは何であろうか。一口に言ってしまえばそれは生け贄であり、みせしめである。……施設にいる障害者(特殊人間)はたいがい外出外泊の自由もなく、所持品や衣服に至るまで制限を受け、必要によっては肉体、生命までも医学の進歩とやらの人身御供に差し出さなければならない。……現在はこれに花園のイメージのベールをかぶせてはいるが、権力者の目的は労働力の確保であり、予算の節約であり、それに伴う棄民施設なのであるから、どうとりつくろってみたところで所詮むりな話である。

(「母親の殺意にこそ」より)

基本的には府中センターのような巨大な施設を求め、どんどんつくろうとする社会の人々の考え方を変えていかなければなりません。

(「障害者と労働」より)

当時、日本各地で巨大施設の建設が進められる一方で、東京都の府中療育センターでは障害者の人権侵害が大きな問題となっていた。その実態を知る横塚は、巨大施設は障害者の人権を無視し、経済成長の邪魔になる障害者を社会から排除・隔離するものだとして、痛烈に批判したのである。

では、このような社会で障害者はどう生きるべきか。この点について横塚は次のように述べている。

駅の階段やいろいろの建築物など町そのものが私たちの存在を無視し、そこで私たちが生きていくことを拒否しているのです。そこで私達の運動は街に出ることから始めなければならないと考えたのです。それは私達のありのままをさらけだすことであり、強烈な自己主張であります。……私達脳性マヒ者には、他の人にない独特のものがあることに気づかなければなりません。そして、その独特な考え方なり物の見方なりを集積してそこに私達の世界をつくり世に問うことができたならば、これこそ本当の自己主張ではないでしょうか。

(「脳性マヒとして生きる」より)

横塚は、障害を克服して少しでも健常者に近づこうとする障害者の意識を批判し、むしろ、障害者にしかない独特な考え方や物の見方を確立することが必要だとした。その上で、社会から排除されている脳性マヒ者がありのままの姿で街に出ていき、自らの存在を自己主張することを通して社会のあり方を変えていく。これが横塚の目指す障害者の生き方=障害者運動であった。

また、横塚は理想の社会について次のようにも述べている。

我々脳性マヒ者、精薄者の生活形態は……やはり他の人……がそうであるように、それぞれの地域に住み、自分自身の生活を営むということが原則になるべきである……より基本的には障害者をとり囲む社会の一人一人が障害者の問題を我が事として考え、その地域にいる障害者を仲間として隣人として受け入れ、折々は言葉をかけ、暇があれば下着一枚でも洗ってやるような精神風土がなければならない。いや、そうではなく、そういった精神風土を我々の力で作っていかなくてはなるまい。

(「施設のあり方について」より)

横塚が目指したのは、障害者と健常者が対等な立場でともに生きる真の共生社会であった。そして、その実現のためには、障害者が運動(自己主張)を通して助け合いの精神風土をつくっていくべきだとしたのである。

このような横塚の主張に共鳴したのは、障害者ばかりではなかった。高度経済成長期の能力主義教育に反発する学生など若者たちの共感を集め、彼らが支援者として参加することで青い芝の会は急速に拡大した。1972年、横塚は全国青い芝の会の会長となり、74年には会が反対していた優生保護法「改正」案が廃案に追い込まれた。この頃が青い芝の会の絶頂期であったといえよう。

しかし、学生運動の流入や若い会員の急増などを背景に、その後、運動が急進化し、会は妥協のない差別糾弾闘争へと突き進んでいく。青い芝の激しい闘争スタイルは社会の注目を集める一方で、青い芝=過激派集団とみなされる原因にもなった。

一方、横塚はがんを患い、75年頃から入退院を繰り返すようになった。そして78年夏、運動の行く末を案じながら息を引き取ったという。

横塚の死後、青い芝の運動はかつてのような輝きを放つことはなくなったが、横塚らの問題提起は21世紀の今日も色あせていないのではないだろうか。

横塚の死から約30年後の2007年、関係者待望の『母よ!殺すな』の再刊(生活書院)が実現した。再刊に尽力した立岩真也氏はこの本を「前の世紀に出た最も重要な本の一冊」と評している。

(すずきまさこ 静岡県近代史研究会会員・障害者運動史研究者)