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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2010年5月号

1000字提言

なぞの娘キャロライン

秋風千惠

ここ3か月の間に、10人の障害者に話を聞いた。その中のひとりから、障害のある友達のお兄さんが医者になったという話を聞き、私はふとかつて読んだ本を思い出した。アメリカの著名な児童文学作家カニグスバーグが1976年に書いた『なぞの娘キャロライン』である。障害のある妹を家の中に囲い込もうとする母、仕事に打ち込むことで家族の問題から距離を置こうとする父、そんな中にあって「よき兄」の役割を引き受けざるを得ない少年。清水真砂子が『子どもの本のまなざし』の中で書いているように、作者は「『障害』をもつ妹の前に立って、自分が『五体満足』であることに罪の意識を感じたり、常によき兄を演じることに追い込まれていく少年にむしろスポットをあて、その少年の生きのびるべき考え方、あるいは方策を共に探ろう」とする。

ともすれば私たちは、健常者/障害者といった二分法、陰をもって陽を照らす印画紙のように対照的なものとして両者を提示しがちである。そんな二分法の中で、どちらにも足を置かざるを得ない立場として、すぐに思い浮かぶのは親の立場であろう。障害者問題に敏感な人々の間で膾炙(かいしゃ)されている『母よ!殺すな』という一冊は、その対照と葛藤を暴きだす。介助の責務を一身に負わされる母は、殺すところまで追い詰められる。そして、だからこそ社会問題として浮かび上がってくるのである。

それに比べて兄弟姉妹は微妙な位置にある。親ほどには庇護する責任があるわけではないが、放っておけない気持ちは残る。愛おしくもあり、邪魔であり、庇(かば)ってやりたくとも年端のいかぬ身にはそれほどの力はない。良心的であればあるほど、逃げ出せない。のっぴきならない場所にいる兄は、託されたものをどうすればよいのだろうか? 作者は切実に解を求める兄に真摯に向き合い、答えようとする。都合がよすぎるのではと首をかしげたくなる部分もあるが、このような立場にある少年の問いかけに答えようとした物語として、忘れられない一冊である。

時代や場所は違っても、障害者を「できれば見たくないもの」とするまなざしはまだまだ強い。清水も指摘するように、「現在の社会では(物語の兄の)立場をさわやかに生きるのはむつかしい」のである。34年前、アメリカの少年に答えようとした物語は、今の日本の少年にも通じるものであろう。医者という選択が障害のある弟妹に影響されたのではと思われて、その子ども時代に思いをはせたのである。

(あきかぜちえ 大阪市立大学大学院)


【参考文献】

.E.L.カニグスバーグ著・小島希里訳『なぞの娘キャロライン』、岩波少年文庫、1990

.清水真砂子著『子どもの本のまなざし』、JICC出版局、1992