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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2011年1月号

時代を読む15

冬季パラリンピック長野大会で日本人初の金メダル獲得

1998年3月6日、志賀高原東館山スキー場に用意された表彰台の中央に大日方邦子(おびなたくにこ)選手が登った。冬季パラリンピックで初の日本人金メダリストの誕生である。

長野パラリンピックは3月5日に開幕し、翌6日から競技が始まった。アルペンスキー最初の種目は女子のダウンヒル(滑降)である。大日方選手は座位クラスの2番目にスタートし、前にスタートした選手より早いタイムでゴールした。その後スタートした選手たちはだれも大日方選手のタイムを抜くことができなかった。日本の身体障害者スキーの歴史始まって以来の快挙である。

日本チームの選手が使用したチェアスキーは、長野パラリンピックのために私たちが開発した。日本でのチェアスキー開発は、1975年に神奈川県総合リハビリテーションセンターから始まった。1980年にチェアスキーとして完成してからは、チェアスキーヤーのスキー技術の向上と追いかけっこしながら進化していった。そして、1996年の世界選手権での敗北をきっかけに高性能チェアスキーを開発することになったのである。長野パラリンピックまで2年という時期であった。

開発にはチェアスキーを普及するために関わっていたリハセンタースタッフと、車いすメーカーなどの企業が協力し、試作と実験を繰り返してほぼ1年間で完成させた。計画ではその後、1年間で乗りこなして本番を迎えるというものであった。しかし、いくつかの問題点も見つかり、さらに性能を向上させるべき点も見つかったため、ぎりぎりまで試作とテスト滑走を繰り返した。結果的に代表選手たちの手に渡せたのは、長野パラリンピック開幕2週間前の2月20日であった。

選手たちは開幕まで必死で滑り込み、メカニックスタッフも調整や修正作業に追われて歴史的記念日の3月6日を迎えたのである。そして日本のチェアスキー選手は好成績を残し、男子の最終種目、スラローム(回転)でついに志鷹(したか)昌浩選手も金メダルを獲得した。

あれから12年、選手もチェアスキーも進化中である。

(沖川悦三 神奈川県総合リハビリテーションセンターリハ工学研究室)