「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2011年1月号
1000字提言
ドライバーズライセンス
辛淑玉
韓国でも運転免許の試験が多言語になったというニュースが流れてきて久しい。
カリフォルニアのサンディエゴで運転免許を取りに行った時、「何か国語でテストが受けられますか?」と聞いた。すると試験官の女性は、めんどくさそうにカーテンを開けた。ズラッと並んだ受験用紙の棚を指して、「AからZまでの頭文字の言語なら全部あるわよ」と言った。数えたこともないのだ。「じゃ、日本語でお願いします」と言って用紙を受け取ったが、翻訳がちんぷんかんぷんで、これなら英語で受ければよかったと思ったほどだった。それでも、これこれの言語で受験をしたいと申し出ればその準備をするのが「公平」な社会であると彼らは言い切る。
試験時間は「テイク ユア タイム」といって、好きな時に来て、自分が納得するまで書いて、提出できる。日本のように試験官の号令で始まることはない。机の高さもさまざまだった。そう、車椅子の人が受験するためだ。ふと横を見ると、頭を何度も揺らしながら受験している車椅子の若者がいた。1文字埋めるのに5分はかかりそうなその若者は、飲み物を用意し、何時間もかけて受験していた。
車の運転免許に、答えを速く書けるかどうかは関係ない。きちんと理解しているかが問われているからだ。たとえ英語がわからなくても、車を運転するのに必要な知識と技量があれば、だれでも免許が取得できるのだ。
他方、日本では、友人のクラちゃんは、その障がい故に、免許を取得するための許可をもらうのに何年も費やした。受験も「健常者」と同じ時間枠で行われた。みんなと同じ高校に行きたいと言ったヒロ君は、受験時間はいくらか延ばしてくれたが、出された課題は「家庭科の実技」だった。トイレに行くことも不自由で、歩くことも難しい彼にその課題を出した教育者の優生思想を思う。
こういう輩(やから)が人を殺すのだ。そしてこれが日本の「公平」なのだ。
サンフランシスコで紹介された日系のスーザンは、重度の障がいがあったが、一部の機能だけを使ってワゴン車を運転して来てくれた。そして、「日本にいたら、私は障害者にされてしまう」と語った。
そのとおり。社会が障害なのだ。
人はみな変化する。生まれた時から歩ける子どもはいない。人は、多くの人の手を借りて大きくなり、そして老いていく。
1人の人生だって多様なのだ。社会はその多様性に応えなければならない。そして、応えさせなければならない。
(しんすご 作家、人材育成コンサルタント会社・香科舎代表)