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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2011年1月号

文学にみる障害者像

『カニは横に歩く』
―「青い芝」の会員たちとは全く違う生き方をして来た一脳性マヒ者が読むと―

堀沢繁治

開き直りである。カニは真っすぐに歩かない。カニは横に歩くことが自然で、無理に縦に歩くことはない。健常者と違う動き方をする脳性マヒの身をカニに譬(たと)えた。譬えたのは「日本脳性マヒ者協会青い芝の会」(以下、「青い芝」)兵庫支部の会員だった。そして、そのフレーズをそのまま使ったドキュメンタリー映画『カニは横に歩く』を自主製作し、脳性マヒの周知と会の広報活動に使った。その映画を作った人々を中心に取材したのが、この著である。著者は差別問題を主に追っかけて来たフリーライターである。

たまたま「青い芝」の兵庫支部の会員の打った介助者募集という投網に掛かってしまった著者が彼らと関わりを持った80年代初頭は、彼らの闘争も下火になっていた。すでに会員の多くが最盛期に比べて重度化していた。とは言え、彼らの意気軒昂振りはまだあった時代で、介助する側は一番苦労した時期だったのではないだろうか。

支部によって少しずつ違う印象を放っているが、「青い芝」全体、激しい自己主張、諸要求の実現のために過激な実力行使をする集団という印象を持たれる。親や施設の管理保護の許(もと)で暮らすことを拒否し、市街地にアパートを借り、自ら介助者を募集し、地域の中で自立した生活を目指し、諸運動を展開して来た「青い芝」の歴史を、関係者への取材を中心にまとめた本である。

この著の特徴は、著者である角岡さんが大学生だったころから、随分長い期間、彼らの介助者として、介助のローテーションに組み入れられ、実際に介助をして来た人だということだ。“記者の一日体験”とは違う。

70年代の運動の激しさから見れば、衰退化したと思わせてしまうのだろうが、それでも彼らの日常は役所などとの交渉や座り込みといった闘争と介助会議、介助者募集活動に明け暮れ、数日間の徹夜も珍しくなく、テンションの高さを持続させていた。考えてみれば、それらに付き合わされる介助者側も非常に大変だった、と想像する。

猛烈な競争率の、養護学校にもならなかった時代の肢体不自由学校の入試に落とされたり、そういう学校があるということを知らず、入試にもたどり着けなかった、そのために地元の普通校に入り強烈なイジメに遭ったり、就学猶予や就学免除という制度の適用を受け、学校そのものに入ることを断念したり、そして、家にいても保護者の事情から満足な世話を受けられず、障害を理由に保護者から冷遇された…。

そんなことが60~70年代の「青い芝」の常軌を逸した運動の原動力だったのか、とも思う。

僕は養護学校に1956年~68年の12年間在校していたが、中学部のころから彼らの過激な運動に疑問を持ち、高等部になると、彼らの運動が本領を発揮し始め、僕は強い反感を持った。僕の学年の多くの脳性マヒ級友たちに共通の感情であった。

なぜ家を出るのか? それが、なぜ自立生活なのか? 市民感覚を極端に逸脱した過激な運動の方法を採(と)って、社会に一定の共感を持って受け入れられるだろうか? それが一人前の成人として認められる方法なのか? 社会の共感を得ない限り、目指した運動の成果は得られないのではないか? 運動を進めれば進めるほど、市民感覚との乖離(かいり)が大きくなり、嫌われるだけではないか? 運動が人生の目的なのか?

アパートを借りると言ったところで、勘当同然の親が裏に回って、あるいは地元の有力者を立てて仲介業者や大家に理解を求め、当人に代わって費用を支払ったり用立てていた例を複数知っていた。

僕自身、現在、大家である。隣近所に配慮しない多数の介助者が出入りする障害者には貸せないというのが本音だ。

彼らは社会の理不尽さや矛盾といったことを純粋に考え、僕や級友たちはズルく、いい加減に考えていたのか? 僕たちも真剣に自分の生きる道を模索していたのだが。

この本では、「青い芝」兵庫支部について、1980年代の初頭から書き始められている。しかし、「青い芝」(本部)が会として誕生し、一定の運動を始めたのは60年代の初頭である。最初のうちは脳性マヒを中心にした親睦会のようなもので、地域の未就学の脳性マヒ児に対する学習指導や旅行を楽しむという会だった。

当時は学校に行ける脳性マヒ児は少なく、家に幽閉されている者の方が多かった。僕の住んでいる東京の城南という限られた地域ではあったが、意義は大きかった。制度として、就学免除や就学猶予があったのだから。社会の無理解や偏見も酷(ひど)いものだった。一生の間に一度も家の外に出たことがない、という障害者が稀(まれ)ではなかった時代だ。

しばらくして、障害者・児に対する諸対策の改善要求などで国や東京都と要求交渉を行うようになって行った。支部が各地に創設されはじめ、地域ごとの問題に対応していた。

これが、この本が取り上げている「青い芝」の80年代に入る前の略歴である。

会員同士の意見の対立、介助者との関係性、支部同士、支部と本部とのいざこざ…詳しい事実経過は本の記述に任せるとして、もう一つ別の観点から脳性マヒ者の生き方を語る必要がある。

彼らの日常生活と言えば、所謂(いわゆる)「闘争」か、地域の脳性マヒ者がいる家庭を訪問し、外出の機会を与える「訪問」活動に明け暮れる。ほかの支部や本部の「闘争」の応援に遠路出掛けることもあり、それが終われば、総括などの名目で時間を限らず会議を開き、激論を闘わせ、時に酒宴を開いて大騒ぎをする。ローテーションを組んで、ほとんど決まった顔触れの介助者たちだ、と言っても、周辺住民にとっては不特定の若者たちが夜な夜な怒鳴り合い、ドタンバタン暴れている、と受け止められる。

アパートを借りた本人にも、そういう気配りはあまりというより全く見られないし、介助者たちにもなかった。

とにかく、日々の闘争をこなし、次の介助者捜しに明け暮れていた。

彼らが近隣の存在に気づかされたのは、阪神・淡路大震災だった。避難所で一番困るのは重度の脳性マヒである。でも、一応命の直接の危険がなくなると、立場が逆転してしまう。「青い芝」のような全国規模で組織展開している団体は、全国から支援者が駆けつけるし、支援物資も届く。

そうなると、一人暮らしや夫婦だけでひっそり暮らして来た高齢者にはなかなか届かない。豊富な人手と物資の集まる脳性マヒに良い気持ちは持てなくなるだろう。介助者たちが自然発生的に、避難所全体で援助に来た人員と物資を使うようにした。彼らの介助から退いていたが、大震災を機に付き合いを再開した介助者も多い。

「青い芝」にとっては、初めて近隣の人との交流を持ったと言える。

彼らとは一線を画す考えを持つ重度の脳性マヒ者がいた、いや、ここにいる。僕自身である。彼らのように社会に向かって直接自分の要求を発して、行動に出たことはない。それどころか、社会のルールを守って生きることが自分の社会に対しての使命であると心得ていた。

僕も、彼らと同じように、社会が障害者のことを考慮してつくられていないことには腹を立てる。優生保護法も理不尽だと思っていた。特に、祖母や母が僕を可愛がってくれることに鬱陶(うつとう)しさを覚えた。

だからといって、祖父母や父母の保護から離れようとは一切思ったことはない。「甘ったれの意気地なし!」と酷評する人は、そう評すれば良いのである。僕は、甘えていた方が自分の得になるし、社会に対する迷惑も、損害も最小で済ませることができる、とまじめに考えていた。自宅で独り暮らしになった今でも、そう考えている。

僕と彼らとでは「了見」(=生きる覚悟)が違うのである。この本を読んだ正直な感想だ。

読後感になっていないことを承知の上で、敢(あ)えて「青い芝」とは正反対の生き方をして来た、幸せな一脳性マヒの感慨を表明した。

(ほりさわしげはる 車イス者の生活を考える会代表)

◎角岡伸彦著『カニは横に歩く―自立障害者たちの半世紀』、講談社、2010年9月