「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2011年5月号

文学にみる障害者像

地域に暮らした人たちの姿
『亀さん』『八の馬鹿』

中野惠美子

地域で「普通の暮らし」をする、いわゆる「地域移行」の取り組みが進む一方で、障害ある人たちのグループホームを建設しようとすると反対運動に合う、という話は枚挙にいとまがない。郊外に開発されたある住宅街で、施設は建ったものの、住民たちが施設の利用者が周辺を散歩することを許さないため、「散歩」は町から離れた場所まで車で出かけて行われている、という話を聞いた。一時帰宅をした利用者が最寄りの駅から施設まで歩いて帰ってくる姿を写真にとって、「約束が違う」と抗議をしに来る住民もいるという。医師や裁判官など、本来、人の命や人権を守るべき人たちも反対派に加わっていると聞くと、暗澹(あんたん)たる思いにとらわれてしまう。

私たちの社会はいつからこんな社会になってしまったのだろう。そんなことを考えながら、少し前の時代の作品を読んでいたら、さまざまな人たちが地域社会の中で受け止められて暮らしていたことを知らせてくれる作品があった。

檀家の人々に守られた「亀さん」

明治の作家、広津柳浪の作品、『亀さん』は知的障害があると思われる人物が主人公である。寺の息子である「亀さん」は23歳だが、13、4歳くらいの身体つきで、頭が大きく猪首で、両手をだらりと下げ肩を左右に振って歩く。作者はその異形ぶりを冷徹に描き出すが、一方で「眼にも口にも、笑う時は不思議に愛嬌が出て、邪気のない心の底までもが見え」、「亀さんが通る所は、一時に福の神が門口に来たかのように見受けられた」とも描く。町ではだれも彼を憎む者はないが、「魯鈍」で経を覚えることができないため、僧侶である父からは見放されている。日常の生活は姉の世話を受けているが、檀家の人々が気の毒がって衣食の料を毎年寺に納めてくれるおかげで、「亀さん」の生活は成り立っている。

「情事は理解しない」と思われていた亀さんだが、ある日、町の娘に襲いかかるという事件を起こす。騒ぎを聞きつけて姉もやってくるが、姉の手には負えず、町の人たちが亀さんを寺へ連れて帰る。村はずれの空き家に住みついているお辰という女が、亀さんに「春」を教え、事件を起こすように仕向けたらしく、お辰は先回りして、寺に連れ帰られた亀さんを迎え、檀家たちの前で「亀さんと夫婦になる」と言う。驚いた檀家たちは、お辰に町から出て行ってもらおうと掛け合う。

お辰は亀さんに自分が住んでいる家に放火させ、寺から金を得ようと考えて、言葉巧みに亀さんに言い寄る。お辰の「夫婦になるため」という言葉を信じた亀さんは、言われた通りに火を放つが、家の中には泥酔して前後不覚になったお辰がいた。その後、毎日お辰の墓に花を手向ける亀さんは、すっかり無口になり、女を追いかけることもなくなった。

この物語には寺の僧である父親は一切、登場してこない。日常的には姉が亀さんの世話をしているが、いざという時には檀家の人たちが問題解決に乗り出してくる。亀さんの家は寺という町の人たちにとっての公共空間であり、日頃から「亀さん問題」に取り組み、世話をやくのは町の人たちである。悪巧みをしたお辰が寺に乗り込んできた時、お辰との交渉にあたったのも檀家の代表であり、檀家の人たちは、亀さんの「後見人」のような活動をしている。亀さんはお辰に騙されていくつかの事件を起こすが、それでも町の人たちは亀さんを見守り、支え続ける。父親に拒絶され、家族の手におえない亀さんだが、檀家の人々に見守られて地域に暮らしている。

村人たちに見守られた「八」

鈴木三重吉の大正期の短編『八の馬鹿』は、どこからかやって来て村に住み着いたが、一言も口をきいたことがないという男が主人公である。30年ほど前に、「ぼろぼろの着物に裸足で、ぼうぼうにのびた髪をして、半分毛をむしった鳥の死骸を噛みしゃぶりながら」、小さな貧しい漁村にやって来た。「十文に足りない馬鹿な人間」という意味をこめて、村人たちは「八」と呼ぶ。どういう経緯か、沖から帰る船のために提灯をともす番小屋に板を打ち付けて寝床を作った者があり、八はここで寝起きするようになった。

夜は提灯を灯す作業の手伝いをし、海岸に打ち寄せられた木片を集めて乾燥させて焚き木を作るのが八の「仕事」となっていく。村のほとんどの家では芋を食べていたが、八はどんなに腹が減っても米しか食べない。米のある家を知っていて、村長と寺と郵便局をやっている家の三軒だけに出かけて行く。大きな家の台所に作った焚き木の束を置き、その家の下女やおかみさんが出てきて、手に持っている袋に米を入れてやるまで、何時間でもそこに立っているという方法で、米を手に入れる。村の子どもたちが「八の袋に砂を入れてやろう」などと悪さをたくらむと、それを聞きつけた村の年寄りが子どもたちを諌(いさ)める。

八は海に入って魚や貝を素手でつかまえて生で食べ、満腹になるとごろんと転がって目を閉じる。その顔は村の誰よりも知恵があり、人の運命を予知して瞑想しているようにも見える。

ある日、八が寝床からいなくなる。村はずれの岩の上でわんわん泣いているのを見かけたという者がいて、年寄たちは「どこかを病んでいるのだろう」と言う。ある大雨の日に、泣きながら海に入っていくのを見たという子どもがいた、というところで物語は終わる。

八は言葉こそ発しないが聞こえないわけではなく、村人の言うことは十分に理解している。もともと寡黙な性質なのか、何かのきっかけで失語状態になったのか、あるいはいつの段階かで心の病を発症して放浪し、村にやってきた頃から症状が落ち着き、それが長く続いていた状態、と見ることもできる。

番小屋の仕事をこなし、米をもらいに行くときにも実に適確に行動している。八の行動は「米をもらいに行く」というよりは、「焚き木と米を交換してくる」といった様子である。汚い身なりをして魚や貝を生で食べるが、米の飯しか食べない、というところに人間としての誇りのようなものが感じられる。村にやって来る前は米の飯しか食べないような生活をしていたのかもしれないが、八に家族の影はなく、どのような事情で村にやってきたのかについても、何もわからない。

村人たちは番小屋という公共スペースを開放して、八に火の番の手伝いをするという役割を与えている。八はその環境に適応し、30年もの間、きわめて安定した生活を送る。八は村人たちにゆるやかに受容され、村の人々からコミュニティーの周辺に居場所を与えられ、役割を与えられて、守られながら、生活していたのである。

別の価値観をもたらす人として

亀さんも八も「脱家族」しているが、家族の責任や「扶養義務」が言われることもなく、コミュニティーに暮らす人たちがいつとはなく彼らの世話を始め、さまざまなかたちで彼らの生活を見守り、支えている。彼らは公共的なスペースに居場所を持ち、人々の目に触れる場所にいて、常にだれかに見守られている。そのようにして彼らの生活は成り立っており、そのことが安全を保障する道であることが示唆されている。

「福の神」のような亀さん、「哲人」のような八は、村人たちの同情心や親切心から大切にされたという面と、人々に日常とは別の価値観をもたらす存在として受け止められていたという面があった。彼らの行動に人々は自分たちの日常を超えた何かを見出し、ひきつけられるものを感じていた。

これらの作品は明治から大正期にかけて、社会福祉の制度が確立する前の時代に書かれている。近代の早い時期にこうした作品が書かれていたという事実は、私たちの社会はそもそも、多様な人たちで構成されているのだということを改めて教えてくれるように思える。

冒頭で触れた反対運動家たちは「地域に施設が建つと不動産価値が下がる」と主張している、と言う。福祉施設が建つとバリアフリーも進み、間違いなく住みよい街になるのだから、「不動産価値は上がる」、そういう風土を作り出していかなければならないと強く思う。

(なかのえみこ 財団法人日本知的障害者福祉協会)


【文献】

○広津柳浪『亀さん』、初出「五調子」、陽春堂、明治28年(1895年)

○鈴木三重吉『八の馬鹿』、初出「中央公論」、大正4年(1915年)4月