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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2011年9月号

時代を読む23

京都・与謝の海の学校づくり

1970(昭和45)年4月、京都府立与謝の海養護学校が開校した。学校は、京都北部、日本三景の一つ天の橋立にほど近い丘の上にある。ここは人口の多い都会でなく、過疎化の波が押し寄せる地域である。当時、養護学校は義務化されてなく、多くの障害児は学校に行けない時代である。そんな地域、時代にもかかわらず養護学校が開校し、障害の重い子ども、年齢の高い子どもから入学できたのである。それは、この地域に養護学校設立を求める運動があったからだ。その運動は十数年に及び、父母、教職員だけでなく、多くの市民を巻き込むものであった。

この頃、多くの障害児は学校に行けなかった。行けないどころか、ある調査では、不就学障害児の死亡率は学校在学児の数十倍という結果が報告されている。「学校に入るなということは、生きるなということ」だったのである。文部省は通達で多くの障害児を「教育にたえることのできない」者とし、就学猶予や就学免除を強いた。

これに対し、障害児を育てる父母、教職員を中心に、「学校に行きたい、友だちがほしい」「どの子にも入学おめでとうを」を合い言葉に教育権保障を求める運動が、全国各地で、京都北部で展開された。

与謝の海養護学校の設立は、その後の養護学校義務制実施にも、障害の重い子どもの就学にも大きな影響を及ぼした。

運動によって設立された学校は、学校設立の基本理念をまとめた。1.すべての子どもにひとしく教育を保障する学校をつくろう。2.学校に子どもを合わせるのでなく、子どもに合った学校をつくろう。3.学校づくりは箱づくりではない、民主的な地域づくりである。

学校を設立させた運動は学校づくりで終わらなかった。生徒会を中心に地域の高校との「高校生春季討論集会」への参加、地域の小学校との共同教育も始まった。卒業後の働く場、生活する場をつくる運動も自治体ごとに進められた。地域に発達保障のネットワークを築く、世界的にも類例をみない運動が展開されたのである。

(品川文雄 NPO法人発達保障研究センター理事長)