「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2011年9月号
ワールドナウ
障害に関する世界報告書について
江藤文夫
1 はじめに
本年6月9日、ニューヨークの国連本部でWHOと世界銀行による「障害に関する世界報告書(World Report on Disability)」の刊行を祝う式典が挙行された。本報告書は、国連の障害者の権利に関する条約(CRPD)の中身の実現に向けての全体的指針を提供するものでもあり、障害のある人々の全体像、そのニーズの実情、社会での完全参加とインクルージョンを妨げるバリア等について記述している。それぞれについて、エビデンスを強く意識して編集執筆されており、この種のものとしては初めての世界報告書である。
本報告書の製作過程で、草稿の第1版が完成した段階での文書チェックと意見出しのためのコンサルテーション会議がマニラのWHO西太平洋地域事務局で開催された機に出席し、発刊を心待ちしていたひとりとして、この世界報告書について紹介させていただく。
2 報告書作成の背景と経過
本報告書の刊行に至る直接的背景は、2005年5月の世界保健総会(WHA58.23)決議がWHOに対して、最良で入手可能なエビデンスに基づく障害に関する報告書を作成するよう求めたことにある。最近の30年間で、国連による国際障害者年の設定、障害者の機会均等化に関する標準規則の採択、WHOによる機能と障害と健康に関する国際分類(ICF、国際生活機能分類)の策定、国連におけるCRPDの採択と効力発生など、障害をめぐる大きな出来事と問題の大きさにもかかわらず、障害とリハビリテーションの領域では総合的なエビデンスの基盤が存在しないことが理由とされた。
このWHA決議は、「予防と管理とリハビリテーションを含めた障害」に関するものである。この決議を受けて、1993年に国連で採択された障害者の機会均等化に関する標準規則とを合わせて指針として、WHOにおける障害とリハビリテーションチーム(DAR:Disability and Rehabilitation)は「行動計画2006―2011」を策定した。その中核となる9項目の行動の第一に、障害とリハビリテーションに関する世界報告書の作成が挙げられた。5番目にはCBRの推進が挙げられ、その成果物として想定されたCBRのガイドラインは昨年刊行されている。
世界報告書について、DARは2006年12月に世界各地から9人の外部専門家を招き編集委員会を立ち上げ、報告書の目的、読者対象、構成と内容、作成までの具体的手順を検討し、章ごとに執筆の核となる責任者が選定され、作業が開始された。
目的は、1.障害、リハビリテーション、インクルージョンおよび障害のある人々の生の体験の現状に関する既存情報を要約すること、2.必要とされるものと現実のギャップを明らかにするエビデンスを記述すること、3.エビデンスに基づく枠組みで将来への道筋を提案し、行動を呼びかけること、とされた。
提言を除く草稿が出来上がった段階で、WHOの6地域から専門家を集めて4か所のWHO地域事務局でコンサルテーション会議が開催され、120人以上が参加した。編集委員会は、さらに広く「灰色の(根拠の希薄な)」エビデンスまで含めて情報提供するよう、世界中の関係者に呼び掛けた。こうして、当初の予定より約1年半遅れて本年6月に報告書は刊行された。
3 報告書の内容と提言
この世界報告書の完全版と概要版については、WHOのホームページにアクセスして入手可能である*。
完全版は300ページを超す大分量で、序章と9つの章からなる。第1章では障害などの言葉を定義し、ICFとCRPDについて紹介し、障害と人権および開発について考察している。第2章では世界での障害頻度に関するデータおよび障害者の状況について、第3章では障害者の健康状態と主流の保健サービスへのアクセスについて、第4章ではリハビリテーションについて、第5章では支援サービスについて、第6章では建物や交通などへの物理的アクセス、および情報とコミュニケーション技術へのアクセスなどインクルーシブな環境について、第7章では教育について、第8章では障害者の雇用について、それぞれ検証し考察している。各章ごとにまとめと提言が記載されているが、大方針と各関係組織や団体の具体的な行動を示唆することを含めて第9章で提言がまとめられている。
以下に、各国のさまざまな関係者への提言の項目を紹介する。
(1)すべての主流の政策やシステムやサービスの利用を可能にすること。
(2)障害のある人々へのプログラムとサービスに投資すること。
(3)国家的な障害戦略と行動計画を採用すること。
(4)政策、法律の立案、サービスの提供において、障害のある人々を含めること。
(5)人的資源の能力を向上させること。
(6)十分な資金提供をして、利用しやすさを改善すること。
(7)障害について一般の人々の意識と理解を増大させること。
(8)障害に関するデータ収集と質を向上させること。
(9)障害に関する研究を強化し支援すること。
以上の提言に関連して、各国政府を含め関係機関や団体、そして当事者が実行しうる具体的行動の示唆が列挙されているが、これらは概要版にもそのまま掲載されている。
4 報告書とDAR協力機関会議
WHOでは、世界報告書が刊行された機に、DARの協力機関会議(Meeting with DAR Partners)を今年6月末にジュネーブの本部で開催した。私どもの機関が障害とリハビリテーションに関するWHOの研究協力センターとして指定を受けていることから、偶々知って参加した。
会議の目的は、前回会議(2007年9月)以降の「行動計画2006―2011」の進捗状況を検証し、世界報告書を効力あるものとするための方策、本報告書を基盤として今後10年間の行動計画を検討するということだった。この会議には、われわれ同様の研究協力機関の他、Rehabilitation International (RI)、Handicap International (HI)、International Disability Alliance (IDA)、International Disability and Development Consortium (IDDC), World Blind Union (WBU) など当事者ならびに関連団体の代表、リハビリテーションに関する保健医療専門職団体の代表などが参加していた。
当面の課題の一つとして本報告書の普及が上げられたが、各国語への翻訳の問題は参加者には些細(ささい)なことのようであった。中国語はCRPDの場合と同様に公用語であり、「世界残疾報告」としてすでに概要版がWHOホームページにも掲載されている。
人権問題に関して、しばしばアメリカの独立宣言に言及されるが、福沢諭吉が“Rights”の訳語として苦心した「通義」や“Society”の訳語「人間交際」が普及していたら、この領域の概念はわが国でどのように展開したであろうか。コミュニティーの漢語表記で「社区」を想起するであろうか。今後10年間の、国連関連機関の障害に関する方針の根拠とされる報告書ではあるが、微妙なニュアンスでは理解に苦労しそうである。
なお、DARの行動計画であげられた報告書の表題は、草稿の段階から2009年までは「障害とリハビリテーションに関する世界報告書」であり、最終段階で「リハビリテーション」が消えたが、内容からは妥当と思われた。
5 おわりに
エビデンスに基づく、という表現の理解も一様ではないと思われるが、行動選択には好き嫌いも含めて何らかの根拠があり、医療の領域に限ったものではない。根拠は記述されて、公開されたもの、さらに客観性の保証されたもの、など信頼性の強度はさまざまである。それらを、CRPDが目指すものと現状(地域差も含めて)とのギャップを明らかにする科学的情報と表現している。この報告書は、多くの人々が障害についての理解を共有するための有力なツールとしても期待される。
(えとうふみお 国立障害者リハビリテーションセンター総長)
*脚注:
(完全文)http://whqlibdoc.who.int/publications/2011/9789240685215_eng.pdf
(概要版)http://whqlibdoc.who.int/hq/2011/WHO_NMH_VIP_11.01_eng.pdf