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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2012年3月号

被災地の死と生が問うもの

野倉恵

東日本大震災と東京電力福島第一原発事故ではおびただしい犠牲がもたらされ、大勢の人が生き延びても地域や自宅で暮らせなくなりました。その中に障害をもつ人が多くいると言われます。何人がどのような状況だったのか、今どうなのか。近づくことが大災害の本質に近づくことかもしれませんが、微力な私たちの手に余る、難しい作業です。暦の1年の巡りが被災者の節目ではなく、記事で随時伝えさせてもらった動きもほんの一部の途中経過にすぎないのをご了承いただければと思います。

「弟も私も、とてもおめでとうっていう気分でない。仮設での静かな正月でした」。宮城県名取市の仮設で暮らす渡辺敏正さん(74歳)は振り返ります。地震発生後、名取川河口近くの閖上地区の自宅玄関にいた弟の征二さんと妻の正子さんを車に乗せ、間一髪で全員助かりました。征二さん夫婦は聴覚障害で、隣の仮設に住んでいます。

当時、消防団や地区の役員も避難を呼びかけたようですが、征二さんは筆談で「津波は全く分からなかった。家に来て避難を呼びかけた人もなかった。取り残された気がした」と語っていました。土手を走る車の後ろに波が迫り、土手下の人々をのみこむ光景が、2人とも頭から離れませんでした。「神も仏もない体験だった。暮れに墓石が倒れた墓所からご先祖の骨を拾い、洗ってお寺に預けた。ようやく最近、眠れるようになりました」(敏正さん)

被災死の大半が津波による犠牲だった大震災では、地震発生から津波襲来までの数十分の行動が生死を分けたとされます。毎日新聞の調査では、岩手、宮城、福島の3県沿岸の33市町村中、身体、知的、精神の障害者手帳所持者に占める犠牲者の割合は約2%と、住民全体の死亡率より2倍以上高く、被害が深刻だった宮城沿岸部の石巻市では4倍高くなっていました。

名取市の市民の死亡率は1.1%、障害者では2%でしたが、死亡・不明者は、高台のない海岸沿いの閖上地区に集中。敏正さんは「過去の地震で被害が少なかった経験から大丈夫と思い、逃げ遅れたり逃げない高齢者が少なくなかった。弟夫婦のように、周囲の状況が分かりにくければ、致命的になったのでは」と言います。

一帯が壊滅状態に陥っても、障害者を含む住民全員が助かった地区もありました。牡鹿半島の石巻市大谷川浜地区は「全家屋が波にさらわれ、がれきも残らなかった」(区長の阿部政悦さん)ものの、約20数世帯80人全員が無事でした。指定避難所の公民館では危険とみた当時の区長らが、近くの山をめざすのを判断。消防団員が全戸を回り、集落別に「車いすの女性を4人で担いだり、寝たきりのお年寄りを毛布で運んだ」(消防団員)。避難できる山が近くにあり、互いの顔が分かり、避難訓練に多くの住民が参加していて素早く動けたのが大きかったと言います。

こうした例はまれで、大震災前から都市化や高齢化でコミュニティーの手薄さに悩む地域が多いようです。自力で避難するのが難しい障害者やお年寄りなど「災害時要援護者」について、国は2005年に避難支援のガイドラインを定め、市町村に計画や名簿の作成を求めてきましたが、昨年4月時点で誰(だれ)が駆けつけ、どこに避難するかの個別計画も作っていたのは22%でした。

政府は大震災を受け、このガイドラインを見直すとしています。毎日新聞の3県沿岸市町村の聞き取りでは、未曾有の災害を前に、計画が機能しなかった過酷な現実が浮かびました。先行して2007年に個別計画を作った石巻市は、犠牲は市民全体で2,700人以上、障害者では599人。「逃げ込めるビルや高台がない地域も少なくなく、警報が伝わらず、道路も大渋滞した。援助者も身を守るのに必死にならざるを得かった」(担当者)

「防災無線や電話が使えなかった」(塩釜市)、「誰かをつける仕組みそのものが(津波の時はめいめいで逃げろという言い伝えの)『津波てんでんこ』と相いれないところがある」(気仙沼市)の声も。「家を流された被災住民に簡単に援助者になってと言えない」(福島県新地町)の指摘もありました。

それでも、「援護が必要な人を把握し、地域で備えるのが基本」(岩手県大槌町など)、「時間差のある津波や、ほかの災害など状況別、時間帯別、障害別に支援の仕方をきめ細かく示すべき」(宮城県気仙沼市)と今後への提起もあり、「高台移転や津波ビルなど復興計画と切り離せない」と多くの自治体が答えました。

一方、多数の住民が避難中の福島県の原発周辺自治体は、日々の対応に追われ、「(要援護者の)現状把握で精一杯。借り上げアパートではそれさえ困難」(南相馬市、大熊町、浪江町、双葉町)。「要援護者名簿を作っても日々動く。自治組織が崩れ、支援者の確保も難しい。新たな災害があったら正直お手上げ」(南相馬市)と、地域の姿自体が描けない状況でした。

一方、原発事故は、多くの障害を抱える人の日常を一変させました。

頸椎損傷の雫川信之さん(55歳)は、震災1年を、警戒区域の福島県南相馬市小高区の自宅から約80キロ北に離れた仙台市の借り上げ住宅で迎えようとしています。自治体に紹介された官舎でもバリアフリーでなく、トイレや風呂は車いすをこするような狭さ。坂の上にあり、閉じこもりがちになり、散歩に出ると、「坂道が急で車いすでは危ないですよ」。交番の前で警察官に停められました。

雫川さんはバリアフリーの実家で妻と母親と暮らしてきました。地震後、避難所はトイレが使えず、校庭に自家用車を停めて寝て、宮城の親族宅にたどり着いたものの、疲労から衰弱。県内の施設は被災者で満杯状態で、3月末に山形県総合療育訓練センターに入所しました。初めての施設入所で、職員は親切でしたが、母親は山形の特別養護老人ホーム、がん手術後の妻は宮城の実家と家族ばらばらになりました。南相馬市に戻るのは、仮設の風呂やトイレの改装が難しいため断念。昨年10月、借り上げに移りました。

「話好きで毎日出歩いていた母親が、特養の相部屋で元気をなくしていくのが心配」。自宅は警戒区域が解除になる可能性があるものの、除染や妻の医療機関の心配から「宮城に家を」という話も夫婦で出ています。「その場合、東電側に補償はなく自前になると言われ、悩んでいます」(雫川さん)

津波被害の沿岸部だけでなく、特に原発周辺の福島の自治体は、こうした新規の障害福祉サービスや、介護認定の申請が急増。広範で長期の自治体の機能停止、事業者の戻らない現実が重なり、社会保障の仕組みの根元を揺さぶっています。

まだまだ復興途上、あるいは先がみえない不安が続く被災地。それでも、懸命に生きる、家族として仕事として人として支える、頭の下がる姿に多く出会いました。

石巻市では、外見から障害が分かりにくく、避難所にいたたまれずに全壊状態の自宅に戻った難病の女性が、仮設でご主人と励まし合っていました。死者・不明者が最多のその石巻で、重い脳障害で四肢マヒの女子中学生がこの春、高校生になります。避難生活を送ったのは、小学校の一般避難所でした。

南相馬市の障害者支援施設「ぴーなっつ」では、法人代表理事の青田由孝さんや施設長の郡和子さん、一部職員さんが原発事故直後の現場にとどまり、各地の応援も駆けつけ、利用者の方の安否確認やケアを続けました。事業再開に踏み切るきっかけとなった、自閉で知的障害の利用者の男性は、生活の激変にとまどい、避難所で家族も疲弊し、再開後はこだわり行動もみせなかったそうです。しかし、年明け後に避難先から戻った職員さんは、男性も含めて「震災前よりみんな穏やか」と感じたと言います。際どい日々を共に超え、「ここが居場所と前より感じてくれているのか」(郡さん)。男性のお母さんは「地獄のようだけど、この子がかわいい」と話していました。人のすごさや可能性のようなものを、深く感じさせてもらう場面が多くありました。

大災害後の状況は社会の縮図。たびたび、内閣府の障がい者制度改革推進会議のメンバーの方々から言われました。障害をもつ人がどうなるかに社会の本質が現れる。その通りと思いました。しかし今回、直接死、災害が影響しての関連死、避難後の影響、どの局面も、まだ明らかになっていません。

死亡実態の解明はその入り口です。釜石の奇跡と言われ、鵜住居小学校など登校児童・生徒全員が助かった釜石市鵜住居地区では、地域住民のALS患者とご家族が複数、死亡・不明になりました。命を守るための福祉や社会保障の仕組みは、千年に1度の災害を経て、ハンディを抱える人のこの現実を踏まえてどうリスク対応できる姿にしていくのか。自分たちは本当に微力で限界ばかりですが、犠牲になった方の死と生から、ごまかしのきかない問いが突きつけられる気もします。地道にたどらせてもらえればと思います。

(のくらめぐみ 毎日新聞社会部記者)