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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2012年3月号

証言3.11
そのとき私は

あの日あの時

種田捷記

2011年3月11日のあの日は、大船渡市身障協の第2と第4金曜日に行われる月2回の月例学習会の日でした。

学習会といってもみんなで気軽なゲームをやったり、写経をしたり、女性たちは着付けや生け花、持ち寄った食材で昼食を作って食べたりと、そんな集まりでした。

午後2時も過ぎ、帰り支度を始めた時です。今までにない強い揺れが長い時間続き、津波が来ると感じて、他のメンバー2人を車に乗せると自宅に向かって車を走らせました。国道45号線は、その頃からそれぞれの方面に向かう車で混んできました。

大船渡町の中心部に向かうと、海岸の方から高台に向かう車で信号の止まったままの交差点は大渋滞でした。

やっと渋滞を抜け、高台の国道と県道の分かれ道のところまで来ました。私の帰る道は海岸沿いなので津波が来ているかどうか確認しようと思い、広い場所に車を停めて沖の海の方を見た時に大船渡湾口の津波防波堤が決壊するのが見えました。

海岸沿いの道路はとても通れないと思い、十数年前に一度通った林道を思い出して、その道に急ぎました。私だけでなく、私の車と前後して2、3台の車も細い曲がりくねった道を通り、被害のない通りまで出ました。

その間、自宅にいる家族のことを思い、97歳になる母親と脳腫瘍の手術の後遺症で左半身が不自由な家内は無事高台に避難できただろうかと思い、車を運転中も、元気でいてくれ無事でいてくれと、声に出して祈りながら被害のない道路まで出ました。

その先はがれきで前に進めないので、車は知人宅に預けて徒歩で先を急ぎました。がれきの来ていない山に登り急斜面を滑りながら畑を迂回し、よその家の庭を通してもらいながら避難所になっている神社をめがけて行きましたが、その神社の境内にも津波が押し寄せていて、避難していた車も境内の隅の方に押しやられて、がれきと水で泥沼になっていて人影もありませんでした。

他の地域の避難所になっている公民館に行こうと思ったのですが、いつもならすぐ行けた場所も流れてきた家や潰れた屋根や家の2階部分がひっくり返って重なったりしていて、なかなか通れません。

家族はどこにいるのか見当もつかず、他の地域の避難所や親戚をがれきをよけて遠回りしながら探し回りました。

3度目に訪れた公民館で避難していた人から、母親と妻は私の妹の車に乗って避難したようだと聞きました。私には妹が2人いて、下の妹は陸前高田市に嫁いでいますが、大船渡市内の同級生のところに塩蔵わかめづくりの手伝いに来ていました。嫁ぎ先は高台なので安心ですが、実家が海岸の近くなので駆け付けてくれたのだと思ったのですが、どこへ逃げたのか分かりません。携帯電話も通じないし日も暮れて来て気持ちだけが焦って、無事でいてくれ無事でいてくれと呟きながら、あてもなくさまよいながら避難所になっている公民館を尋ね探し回りました。

4度目に訪ねた公民館にいた人が「ばあさんと姉さん(妻)は妹の車に乗って避難したのを見た」と教えてくれました。どこの高台に避難したのか、途中で津波に呑まれなければいいがと心配になりました。もしかしたら碁石海岸のレストハウス前の従兄弟のところかと思い、そこを目指して急ぎました。

碁石海岸レストハウス前の駐車場に妹の車で避難していた3人とやっと再会できました。それから、従兄弟の家に行き、熱いお茶とお菓子をごちそうになりホッとして3人の無事を喜びあいました。

3月11日のあの晩は、幸いに月夜でしたので、灯りのない山道や畑の中を歩き回ることができましたし、寒さも感じませんでした。

私たちの地域の避難所は床上浸水をしたので、隣の地域の避難所になっている公民館に、がれきが片付けられて道路が通れるまで、雑魚寝ですが世話になりました。

道路が通れるようになって、市内に住んでいる上の妹が私たちのいる避難所に来てくれました。妹の家は庭まで水が来たけれど床下までは入らなかったといって、97歳の母親だけでも身体が心配だからと迎えに来てくれたので、妹のところに頼みました。

10日ほどして、高齢者のいる家庭には市営住宅の空き部屋があるのでそこはどうだと言われたので、飛びつく思いで現在、住んでいる前母子寮に3人で引っ越すことにしました。でも母子寮は7、8年使われていなかったので、電気も水道も止められていて寒いので復旧するまで避難所にいました。

8世帯の家族がそろったのは、4月になってからでした。

私たちのように高齢者や90歳以上の家族のいる世帯は市の配慮で早く避難所からは出られましたが、母子寮は仮設住宅と違い救援物資などは届かず、体育館などにたまに来る物資を2時間くらい並んでもらうくらいです。

母子寮では一人暮らしの世帯もありますが、廊下を隔てただけの入り口ドアなので、朝灯りが付いてないと気になってお互い声をかけあっています。

浸水被害だけだった人たちは、昨年11月までには家の修理も終わり、3世帯は帰っていきました。母子寮は厨房も風呂もトイレも共同ですが、5世帯で和やかに協力して、我慢することは我慢しあって暮らしています。

後日、3月11日の携帯電話の歩数計を見たら、37,634歩でした。

(たねだとしき 大船渡市身体障害者協会会長)