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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2012年3月号

文学にみる障害者像

『きもちのこえ』の大越桂さん

新井竹子

被災地で

嬉しいなという度に
私の言葉は花になる
だから
あったらいいなの種をまこう
小さな小さな種だって
君と一緒に育てれば
大きな大きな花になる
(「花の冠」)

この詩に出合ったのは、2011年10月29日の新聞“野田首相所信表明演説”の結びのところだった。この詩の作者についても紹介されていた。私はこの方の著作を持っていたので、すぐに取り出してみた。

『きもちのこえ』は2008年3月に出版されている。仙台に住む友人が知らせてくれたので、出版社からじきに私の手に入った。読んでみて非常に感動し、障害児を育てているお母さんたちにも読んでもらおうと追加注文をした。

この著者の大越桂(おおごえかつら)さんが、東日本大震災後に作られた先の詩が、合唱曲となり被災地で歌われ人々を励ましているという。

大越桂さんの本に出合ってから3年目。桂さんは大きく成長されているのだ。私は再びの感動だった。

私は聴覚障害児教育に35年間携わった。その活動の中で「ろう者のことはろう者に聞け」と言われていたが、ろう者自身が本音を語ることはなかなかできなかった。それは教育の未熟さでもあった。その初期は、発音発語を幼い聴覚障害児に執拗に課しているところもあったから、その子の総合力を目一杯育てることができなかった。

自らが実践してきた教育活動を振り返ってみながら、桂さんの育ちや母親をはじめとする周りの方々の関わりをみてみると、日本社会の進展を感じることができる。

桂さんのような方であっても、もっと前の時代に生まれていたとしたならば、このような育ちはできなかったかもしれない。しかしどんな時代にあっても、その人自身とその人に関わる人々の個性的な頑張りこそがその人を救うのであり、時代のせいにはできない。

脳性マヒの方々との関わりは、私にも結構あり、短歌仲間であったほぼ同年の女性とはやや深い交流もあったが、桂さんがこの本に書いておられるほど確かには分からなかったのだと、今改めて思う。

桂さんの『きもちのこえ』を再び読んでみて、「桂さんって、正常なのだなあ」という思いを強く持った。気持ちが正常だから、何にでも興味を持ち、それをやろうとする。

生理があって、お母さんは赤飯を炊いてくれる。桂さんには食べることができないけれど、桂さんはうれしい。「赤ちゃんが産めるかしら」と考える。お化粧をしたい。ドレスアップをしたいなども生き生きと書く。24時間全介助という暮らしの中でも、そのときに持っている桂さんの力を全稼働して事にあたる。

桂さんの成長への取り組みは、障害のない人々のそれへの示唆にもなる。それがこの本のすばらしさ。

双子の一人

さて、それではこの本を追いながら桂さんを見ていこう。

幼児のころの桂さん。他の幼児たちは喜んでいて、保育担当の方たちもいい遊びだと思って盛んにやってくれていた“シーツブランコ”。これが桂さんは大嫌い。楽しみにしていたのは絵本の読み聞かせだったという。

その子その子の好みを見つけだすことの困難さを先生方は語っている。

桂さんは双子の一人であり、一緒に生まれたお姉さんは生まれると同時の死であった。桂さんの体重は819グラムであったというから、普通に生まれた場合の3分の1ほどか。

障害は脳性マヒ。そして弱視。“脳性マヒとは、脳から運動の命令をうまく出すことができなくなる病気です。”と桂さんが書いている。このことを意識したのは、5歳のときというから、随分早い。

小学1年生のときに、足の手術をする。肢体不自由児の専門病院に入る。そこには6人の障害児がいたが、その中で一人では動くこともできないし話もできないのは桂さんだけ。改めて自分を認識しびっくり。

本当の友達

やがて障害のない小学生とも一緒に過ごす時間も持てるようになって、同年の子の自由で遠慮のない発言にも接するようになると、“本当の友達”を実感する。“かっこよく見せようとすればするほど、失敗することを学びました。友達は友達同士、そんなにかっこつけなくていいのだ”と気づく。

5年生では、“胃ろう”を作る手術をする。その後の6年生の後半から中学3年の春に退院するまで病院に住むことになる。

いろいろありながら9歳を迎える。9歳は子どもの発達上の壁だとは、私が現場にあったときにもよく言われて意識していた。

桂さんの9歳の壁は、ひどい嘔吐の連続。寝ていて顔の真上に嘔吐したら大騒動。嘔吐が始まると、もう吐き出す物が全然ないというところまで吐き続けなければならない。

嘔吐の原因は何だろうか。だんだんに分かってきたのは、心の中に表現したいことがぎっしりと詰まってきているのにそれが表現できないから、嘔吐というかたちで表現していたのではないか。何らかのかたちで表現手段を持ったならば、嘔吐は軽減するはずだ。嘔吐という苦労を続けるうちに、脈拍で会話できることを発見する。お母さんもそのことに気づき協力してくれて、脈拍によるコミュニケーションの何とありがたいこと。

嘔吐と嘔吐の間のほんの“30秒が至福のとき”と書く桂さんの気持ちを推し量って思ってみようとすることさえ、私にあって不遜のことと思ってしまう。

死の恐怖

ある日突然に“死の恐怖”が桂さんにやってきたという。その死の恐怖からの脱出は何と“怒り”だったと桂さんは書く。

“体も心もぎりぎりのとき、最後の最後に自分を支えたのは怒りでした。”これには教えられる思いが強い。なるほどと思い、これからこの教えを生かしていきたい。

中学生になった桂さんは、またまた手術。今度は“気管切開”。少しだけ出ていた声が出なくなったのだ。桂さんはとうとう自分は石になったと嘆く。

そして、いのちのためにはあらゆることを捨てねばならなかったと書き、“どんな姿で生きていても、生きている限り、人間は人間です。”と高らかに宣言する。

このようなことを障害児に関わる私たちは、長い間言い続けてきたが、桂さんが言えば説得力がある。脱帽という思い。

文字が使える

第二の母と呼ぶ“ちよこ先生”に出会って、文字を使うという大きな飛躍へと進んでいく。

このころ桂さんは13歳。文字が書けると分かったとき、桂さんはその喜びを書いた。

これで、通じる人になれる。
これで石でなくなる。
これで物でなくなる。
これで本当の人間になれる。

このように信じたから、桂さんは文字練習に怯まなかった。1年間かかって、五十音をマスターした。

いろいろなことを乗り越えて養護学校の高等部生となる。ここでは、ぽっぽ先生との貴重な関わりで、またまた大きく成長するきっかけにたくさん出合う。修学旅行・進路につながる苦労。桂さんに合う職業がみつけられない悩みの果てに、“自分の道を自分で作るのもいいかな、と思うようになりました。”に至り、ブログ「積乱雲」を開設する。

こういうことは、現代だからできること。ラッキーな時代の生まれであり、支援してくださる人々にも恵まれたと言えるだろう。 

桂さんは今、詩・書・短歌・ブログ・文章、その他とたくさんのジャンルから発信し続けている。そこで桂さんは言う。

「自分を一番認めてあげられるのは自分でした。自分が自分を好きになってあげられなければ、誰のどんな励ましもうつろに通り過ぎてしまいます。」

これからの桂さんにも、光あれ。

(あらいたけこ 元埼玉県立坂戸ろう学校教諭・歌人)


【文献】

・大越 桂『きもちのこえ 19歳・ことば・私』、毎日新聞社、2008年