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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2012年6月号

時代を読む32

電話交換手の養成と就業

社会福祉法人日本ライトハウスは、アメリカ海外盲人援護協会(A.F.O.B.現HKI)の協力を得て、1965(昭和40)年9月に視覚障害者のためのリハビリテーションセンター「職業・生活訓練センター」を開設した。理事長岩橋英行1)は、「数百年歴史と伝統と社会の不認識に閉じ込められ、職業選択の自由という社会の理想に一歩も足をふみ入れることのできなかった日本の盲人たちにとっては、この小さな企画は、少なくとも数10年後の日本盲人にとって大きな希望と足がかりをつくったことになるのは疑いを得ない。」と述べ、当時、一般的だった「あんま・はり・きゅう」という伝統的な盲人の職業に対して痛烈な批判を浴びせ、軽工業(機械工)と電話交換手の養成課程を開始したこと、併せて単独歩行の訓練や日常生活訓練を実施していることを記している。

これには数々の厳しい批判が寄せられたが、1967年には2人の修了生をミシン工場に就職させ、翌年には、日本ライトハウス自らが一人の電話交換手を雇用した。本事業は、1969年から厚生省委託事業2)となり、1971年9月時点では、13人が就職している。

電話交換手の養成は、単独歩行やタイプライターなどを含む日常生活に関する基礎指導の後に技術習得のための訓練を受け、全員が日本電電公社による認定試験を受けた。盲人用交換機は、中与通信機製作所で製作したR530という無紐共電式・構内用機種であり、視覚障害者雇用の象徴的な意味合いもあった。企業実習を経て就職に至るが、就職先には、電話交換訓練指導員のほかに歩行指導員・日常生活指導員も付き添い、定着支援を行った。

私は、1970年に日本ライトハウスに就職したが、沖縄から北海道に至る盲学校を卒業したばかりの女性たちや機械工、コンピューターの職業訓練を学ぶ人たち、1970年から始まった歩行訓練士を目指すたちで活気に満ちていた。

しかし、通信事情の劇的な変化により、電話交換手への要望は減少し、若い視覚障害者のある女性たちの花形だった職種が消えた。

(関宏之 社会福祉法人日本ライトハウス)


1)岩橋英行「有能なる社会人の創造―視力障害者訓練のあり方―」、社会福祉法人日本ライトハウス、1968。本書で、世界各国の視覚障害者の職業訓練の事情を紹介するとともに、視覚障害者リハビリテーションの理念や総合的な支援・教授法について著した。時に攻撃的でもあり、極めてセンセーショナルな書籍であった。

2)1980年に労働行政に移管され、社会福祉法人等が「能力開発施設」を設置できるよう「身体障害者等能力開発助成金制度」が新設された。