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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2012年6月号

証言3.11
その時から私は

東日本大震災と盲ろう者

笠井実

東日本大震災により数多くの尊い生命が奪われ、また今なお多くの行方不明者がいらっしゃいます。被災地あるいは避難先で被害の程度はさまざまですが、復興へ向けて苦渋の道を歩み始めたそれこそ数知れない多くの被害者がいらっしゃいます。心からご冥福をお祈りするとともに一日も早く元通りの安心した生活を送れる日々を取り戻せるように心から願わずにいられません。

大震災の犠牲者、被災者の中には、盲ろう者と私たち盲ろう者が社会参加する上でとてもとても大切な役割を担ってくださる通訳・介助者も含まれています。岩手、宮城の盲ろう者友の会で確認できただけでも、盲ろう者1人とその妻の死亡が確認され、通訳・介助者では2人死亡、行方不明の方が2人いらっしゃいます。そのほか友の会で把握している盲ろう者、通訳・介助者については安否は確認されたものの、今なお避難先にいたり避難先が不明であったり、被害の程度は十分には把握できていません。また、数多くの死者、行方不明者、被害者の中には友の会で把握していない盲ろう者も多数含まれており、大震災という異常事態の中、私と同じように他の障害者とは異なった形でご苦労された方がいらっしゃったのではないかと心配しています。また、このような状況下では、盲ろう者の社会参加に通訳・介助者の利用ができなかったり、利用が困難であったりして、日常生活にも一定の制約を受けざるをえませんでした。

あまりにも大きな災害でしたので、復旧復興にはまだまだ時間がかかりそうですし、私の住んでいる福島県内では原発の放射能漏れに対する不安も強く、さまざまな活動に影響が出ています。友の会の活動でも交流会が開けなかったり、養成講座に受講生が集まらなかったり、友の会会費の納入が思うように進まない(友の会離れ?)など影響が出ています。

私個人のことを書いてみます。私は現在56歳の全盲難聴の盲ろう者です。自宅で全盲の妻と共に治療院(マッサージ鍼灸業)を開いているほかに、訪問マッサージの会社の仕事もしています。

地震発生時、偶然でしたが私と専門学校生の長女が家にいました。普段は家にいない長女が帰宅していて私にとっては幸運でした。震度6弱の大きな激しい揺れが6分間続いたと言いますが「生きた心地」はしませんでした。揺れがいくらか収まり、自宅前の公園の広場に長女に誘導されて避難しました。1時間半ほどして自宅に戻りましたが、家の中は食器や書類、食べ物など棚の中や上にあったもの、冷蔵庫の中のものすべてが飛び出し落下して足の踏み場もなく、余震で家が潰れるかもしれないと思うと、不安で中に入る気にもなれませんでした。玄関付近でいつでも逃げられるように待機していました。

その日は、公立中学校の卒業式があり、中学3年生の長男と妻は式に参加していましたが、中学校の校庭に避難したそうです。夕方5時過ぎに2人が帰宅し、家族4人で無事を喜びあいました。その日の夜は玄関先で一晩過ごし、家にあるものを食べました。翌日、ライフラインの復旧には時間もかかり、台所もすぐには使えそうもないこと、家が崩れる心配や原発事故があったことも知り、家族と相談の結果、避難所へ移ることにしました。

私たちの避難先は郡山市障害者福祉センターでした。そこに自宅に「使用可能」の青い紙が貼り出されるまで2週間、お世話になりました。自宅からはタクシーで移動しなければならないほど少し遠かったのですが、福祉センターを選んだ理由について少し説明します。

私の自宅の近くには小学校、中学校があり、緊急時の避難場所になっていたので、最初はそこに相談に行きました。しかし、満員であったこと、私たち夫婦が全盲であったことからなんとなく迷惑そうな雰囲気が感じられました。また、私たち夫婦にしてみれば慣れない場所でトイレに行くのにも人手を借りなければならないこと、不特定多数の方が大勢いる避難所で障害者はほとんどいなく、障害者に対する理解や配慮などは望めないなどの不安が大きく、自宅に戻りました。世話になることの多いホームヘルパーから障害者もたくさん避難している福祉センターを紹介され、普段私も利用する機会も多く、職員とも顔なじみであることから、家族と相談した上で受け入れていただきました。

避難所での生活は思ったほど気楽ではありませんでした。視覚障害者は私たち夫婦だけでした。通路やトイレにも普段は置いていないものが地震の異常時ということもあり置いてあったので、自由に歩くことはできませんでした。盲ろう者の私には、コミュニケーションに対する配慮はほとんどなく寂しい思いをしました。

私は最初に避難した時からポータブルラジオを身に付けていたので、ラジオのイヤホンと補聴器のスイッチをコイルに切り替えることでNHKの第1放送はよく聞いていました。大震災が発生したことはもちろん社会的な情報はそれなりに入手できたのですが、身の回りの情報からはほとんど閉ざされてしまいました。家族と共に行動できたのは幸運でしたが、長い避難所生活で家族も疲れてしまって、大声で話すことも周囲に気を使い、家族の会話も少なくなってしまいました。まして、赤の他人が私に直接話しかけてくれることは、福祉センターの職員も含めほとんどありませんでした。

「ノーマライゼーション」。27、8年前に耳にしましたが障害者、高齢者、女性、幼児はまだまだ「厄介者」なのかな?いやいや、少しずつでも前進することを願い、自己努力もしたいです。

(かさいみのる 福島盲ろう者友の会会長)